「星を巡る魚」―沈む―

 永遠に砂が落ちきることのない砂時計のように、黒くドロドロした液体は、とめどなく流れ続けている。上方から一定の時間と量で落ちる泥が、長くあるようで儚く短いこの時を、ごぽごぽと音を立てながら刻んでいる。

 どぷん、ごぽ、ごぽ。

 黒くドロドロした液体は、重たくくぐもった音を立てている。はじめも終わりもわからない。どこから溢れ、どこへ流れ行くのか。流れ出るそれの隙間を縫うように、月明かりが差している。つめたい青白い光は、僕達と、周りにぽつぽつと立つ大きな水晶の柱を、慈しみ撫でるように照らしていた。黒い泥は、鈍く灰色に、ゆっくりその光を返すだけ。そんな風に暗がりをぽつぽつ照らしながら、ごぽごぽと音を立てて、上から落ちたり、ずっと奥へ沈んだりを繰り返す。
 景色の真ん中にあるのは真っ白な少女。闇の世界の泥の中で横たわる彼女は、ほのかに白く光り輝いて、一等美しく、この瞳に映っている。まるで天蓋付きのベッドで眠る姫君のように、彼女は静かに、安らぎを抱いて、その瞳を閉じているのだ。無力な僕は、ただ彼女を見ながら、同じように泥の中でたゆたうことしかできなかった。

 どぷん。真っ黒な泥が大量に落ち、彼女が浮かぶ水面は鈍く波打つ。どぷん、ぼたぼた。ぼこ、ぼこ、こぽぽ。泥が落ちる。かき混ぜられた空気が、再び上へと戻ってくる。ただただ、そんな繰り返される光景を僕はじっと眺めていた。
 そして今、また、大きく大量の泥が、真っ黒い水面へと落ちていった。それは、大きく波を立て、奥深くへと沈んでいく。鈍く重い波が、彼女の手を引いて、奥深くへと連れ去ろうとしている。彼女を連れて行かないで。僕は夢中で彼女を抱き上げようと手を伸ばした。だが、僕の手は全く彼女に届かない。
 これほどまで、彼女と僕は離れていただろうか。彼女に触れるまでの距離はここまで遠かっただろうか。目の前に見えているのに、手を伸ばすだけなのに。届かないことがもどかしい。言い訳にも似た言葉を頭の中で混ぜながら、精一杯腕を伸ばす。
 あと少し。あと少しで届くのに。ああ、待ってくれ。彼女を連れて行かないで。
 なんだか身体が思い通りに動かない。きっとこの泥が重たいせいだ、きっとそうだ。そう思って、もう一度、と手を伸ばす。ようやく、僕の手は彼女に届いた。やっとの思いでつかまえた彼女の身体を、僕はこの手でしっかりと支えた。これで大丈夫だ、と安心した僕は、彼女に近付こうと、彼女を抱きしめようと、彼女の身体を引き寄せる。僕も彼女へ近付こうと、一歩前へ踏み込んだ。がくん、と何かに引っかかるように、身体が前へ動かない。

 僕の胸の下から、ぐちゅ、と、肉の抉れる音がした。

 僕はそっと、音のした方へと目を向けた。
 そこには赤く透明に光る水晶の柱。抉れた肉と転び出た腸が、僕から流れるその血液が、冷たい水晶に熱を与えているかのようであった。赤く染まった水晶の柱が、僕の胸の下から背中へ真っ直ぐに抜けている。僕が動くと、水晶の柱か僕かどちらかが出しているのかわからない不快な音が、熱感と痛みを伴いながら、ぎち、ぎち、と響く。そうして、水晶の柱は、僕の身体の奥へとめり込んでいく。
 こんなこと、気づかない方がきっと良かったに違いない。
 息を吐くのと同時に、喉の奥が湿った音を出す。
 その時、また大きな泥が、どぷん、と落ちた。彼女がその波に合わせて揺れる。慌てて彼女に目を向けた。僕は僕のことを忘れる。彼女が連れ去られないように、彼女を離さないように、それだけを考える。彼女を支えていた僕は、その波にバランスを取られて前に崩れてしまった。
 僕の身体にかかるこの重力と、真下の水晶がぶつかり合って、ぎう、と肺が圧迫される。きしきしと、骨と水晶とが合わさって音を立てている。きしきし、きしきし。体の中に痛みと音が熱と響く。前よりずっと、息がしにくくなって、視界がだんだん白くかすみ始めて。バランスを崩したのだ。だから、倒れ込んだせいで、更に深く、深く、その柱が身体へとめり込んでいったのだろう。

 でも、今はそんなことに構ってはいられない。
 彼女が目を覚ます時まで、僕は彼女を支えなければならない。離れてはいけない、離してはいけない。それは僕が決めたこと。僕のために。彼女が居てくれさえすれば、僕はそれで良い。だというのに、僕の考えとは別のところで、僕の身体は酸素を欲して痙攣する。
 僕の胸が、思い切り周りの空気を吸い込んだ。ぎちぎちと、ぎうぎうと、僕の身体と水晶は、ぴっちりくっ付いて動くことを許さないのに、身体は無理やり動こうとする。水晶を基点にして、身体が真二つに引裂かれてしまいそうだ。まるで熱された鉄の塊が、脈打ちながら、僕の身体を貫いているようだ。恐怖と痛みは、僕の感覚と思考を支配しようとする。もう考えることなど止めてしまえと言ってくる。

 あつい。
 いたい。

 少しだけやすんでもよいだろうか――いいや、それはだめだ。手を離してはダメだ。
 彼女は大丈夫だろうか。僕の手が掴んだ先に、ちゃんと彼女はそこにいた。彼女は相変わらず眠ったまま。白いワンピースはくすみ始める。流れ落ちる泥と同じように、とめどなく漏れ出る赤。水晶と僕の身体の隙間から漏れ出る僕のいのち。それは、インクのように、果実のように、花のように、いやに明るく鮮やかな色をしている。真白な彼女のワンピースは、赤く、赤く染まり、白さを失い、くすんでいく。
 彼女と二人きりで過ごす時間。僕が彼女を想っている時間。この時がずっと続きますように。僕は途切れそうな意識をつなぎとめる。とめどなく流れ続けている、この溢れる血を無視する。沈み行く僕らを、柔らかく明かりを反射する泥が、やさしく、冷たく包んでいく。僕は、僕だけが、静かに瞳を閉じる彼女を、この落ち続ける泥が刻む時のように、ゆっくりと、しっかりと目に焼き付ける。そう。ゆっくりと、しっかりと。

 どぷん、ぼたぼた。ぼこ、ぼこ、こぽぽ。泥がまた、僕らの時の上へと落ちる。今ここにある記憶は、存在は、重くのしかかり、積み重ねられる時というものによって、跡形もなく消されていくのだ。僕の意識も、波打つように、浮かんで消えるのを繰り返す。居る場所が分からなくなって、自分が分からなくなって。そして、君がわからなくなる。感覚が鈍く、遠くなっていく。でも大丈夫。僕は君のそばにいる。君がしずんでいくのなら、僕も共に沈もうじゃないか。君が流れていくのなら、僕も共に流れていこうじゃないか。

 君がさいごにする顔が、やすらかであればそれでいい。

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( 2019.11.30発行「星を巡る魚」 収録)

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