「星を巡る魚」―星座の話―

 聡明な貴女を愛している。これは、そんな貴女の為のフィクション。僕らだけのノンフィクション。


「ねえ、あなたは知っているのでしょう? 星空っていうのはどんな風なの?」

 大きな瞳を輝かせて、少女は身を乗り出しながら青年に問いかける。彼は、その声を聴いて少し戸惑いながらも、少女の方に目をやった。彼女は青年の言葉を待っている。青年はまっすぐ自分を見つめてくる少女を見て、少し寂しそうな眼をしたが、彼女のために再び口を開いた。

「……星空というのは、太陽が浮かんでいるときの空とは全く別物だよ。光を失くした闇色の空が、大きさも色もバラバラの、ちいさな宝石のようなもので自分を飾る。そのちいさな宝石は『星』と呼ばれる。星というのは、瞬くように光り輝く小さな粒だ。朝が来て空が白むまで、星はずっと輝き続ける。きっと貴女は星空を気に入るだろう。貴女の目には、貴女が大切にしている宝箱の中身より、ずっと素敵に映るかもしれない」
「本当?」
「ああ、本当だよ」

 彼は慎重に、大切に言葉を選んだ。彼女は息をのみ聞き入っている。その言葉の情景を、見たことの無い星空を、その豊かな心の内に思い浮かべているのだろう。白い頬を桃色に上気させている。その表情から、彼女の憧憬は想像に易い。彼女の様子とは対照的に、星空が嫌いな彼は、その目を伏せながら言葉を続ける。

「僕は魚、星空を泳ぐ魚。君は水面に映る……」
「それは何?」
「これはひとつの真実。貴女と僕の本当。そして、貴女と偽りの僕のこと」
「よく分からないわ。あなたは魚ではないでしょう。私もきっと、あなたの言うものとは違うのではないかしら」
「そうだね、貴女の言う通りだ。でも、違うんだ。その全てが正しいとは言えない」

 ふたりは星空を思い浮かべて言葉を交わす。彼女は青年の言葉に含まれる意味を知りたい。彼に聞いたいくつもの景色を、いつか彼と一緒に確かめに行きたい。少女の想いとは裏腹に、彼は少女に自分を知られたくないと思っていた。彼のことを知れば、少女はきっと今のままではいられない。彼を知れば、自らのことも知ることになる。見ることなど叶わないと知っていて、手が届かないと知っていて、いまも天に広がるであろう星空へ思いを馳せている。

「本当は、全てのことがらに意味は無いのかもしれない。だから、貴女はこうして考え、僕は言葉を紡ぐ」
「またそうやって答えを曖昧にするのね。あなたはいつもそう。わからない言い回しをして答えを隠してしまう。答えは絶対にあるはずなのに。あなたはそれで楽しいの?」
「貴女の言葉は、正しくもあるけれど、正しくはない。貴女の言う、その答えだってそうだろう。貴女には『答えは曖昧である』という答えが見つかっているのに、それは答えではないといって、まだその曖昧の形をとらえようとしている。でもそうだね、僕はたのしいよ。見つからない答えを共に探すのはたのしいと感じる」
「私にはあなたの言葉がわからないわ」
「分からなくてもいい。いいや、分からないままでいてほしい。貴女が貴女のまま在ってくれることが大切だ。こうして言葉を交わすことにこそ、意味があるのだから」

 彼女の仕事は、真っ暗な地図に白い航路を描くことだった。白、青、赤、様々な色に輝く光の粒を暗い色の地図の上へ並べ、選んだ粒同士を線で結ぶ。陶磁器のように真っ白な肌に、指先を淡い紅色にした小さな手。その手で白い鉛筆を持って、板の上に広げた星の地図に向かう。星の点と点を自由に繋いで、彼女は曲線を描く。青年からきいた星空を思い浮かべながら、彼女は見たことがない星座を描いている。彼女の本当は、窓の無い塔の中、ある怪物の贄として用意された少女。ちいさく弱いだけの、雪のように白い娘。彼女は窓のないこの塔で、使用人たちと共に暮らしている。彼女の居室の扉には、鎖が描かれていた。部屋から出てはいけない、そう言いつけられていた。彼女はその言いつけを破り、この青年に会いにきている。誰も立ち入ることが許されないはずの、恐ろしい波立つ海が扉に描かれたこの部屋に。
 彼の仕事は言葉を紡ぐこと。空を映す銀の皿に浮かべた星の海の中で、じゃらじゃらと言葉を繋ぎ、円を描く。彼の本当は、鉄柵の向こう側の明るい世界で、自由に線を繋いで掛けるその少女を見ているだけの囚われた青年。青い髪に毛先は明るい金の色。汚れた白いシャツを着せられたその青年は、じゃらじゃらと、枷に繋がれた鎖を引き摺って、目の前にいる純粋な白の少女に言葉をかける。二度と見たくないあの星空を、彼女の為に言葉に変える。

 彼の長い睫毛と、彼女の肩で切りそろえられた星の光のような髪を、冷たい空気がしっとりと撫でる。彼は、子供を寝かしつけるような優しい声色で彼女に言った。

「もうお部屋に戻りなよ。貴女の父君が様子を見に来る頃じゃないのかい?」
「あら大変、そうだった。忘れていたわ。私、戻らなくちゃ。じゃあ、またね」
「……ああ、さよなら」

 これが最後になるかもしれない。彼はそう直感していた。遠くへ行かないで。ずっとここに居て。言葉を、想いを、胸の内に押し込む。彼女は振り返らず、真っ直ぐに出口に歩いていった。重たい扉をゆっくり開けて、慎重に、それでいてどこか楽しそうに、彼女はこの部屋をあとにする。扉が閉じる直前に、彼女はくるりと振り返り、青年に向かって手を振った。波立つ海が描かれたその扉は重たく締まる。がしゃんと鍵が掛けられて、彼は暗闇に包まれる。そうして、彼女の姿は見えなくなった。

「もう二度と、ここへ来てはいけないよ」

 彼は瞳を揺らして言った。本当は引き止めたかったに違いない。ここに居てくれと口にできたならどれほどよかったか。首や手足についた枷のように、彼女をここにずっと縛っておけるのに。彼がそうしないのは、そうできないのは、きっと、彼女のことをおもっているからなのだ。彼女が贄としてここにしばられていることを知っているから。決して会ってはいけない、言葉を交わしてはいけない。彼は恐ろしい怪物なのだから。

「お嬢様、ここにいらしたのですか」

 灰色の使用人は、機械のような音声で彼女を呼び止めた。彼女は肩を強ばらせて、はにかみながら声の方に振り返る。

「ああ……ごめんなさい。今戻るわ」
「お嬢様、部屋の外へ出てはなりません。これでもう二十回を超えます。それだけでなく、塔の部屋の鍵の束も持ち出しましたね? これからはお嬢様の部屋の扉に鍵をかけなくてはなりません」
「ひどいわ! そんなの閉じ込められているのと変わらないじゃない!」
「その要望にはお答えしかねます」
「もう!」
「その要望にはお答えしかねます」

 彼女は大人しく部屋へと戻る。彼女が戻ると、あの無機質な使用人の一人が、その扉にガチャリと鍵をかけてしまった。そうして彼女は、それきり部屋から出られなくなってしまった。


 あれから何度夜が訪れたのだろうか。何度太陽が顔を出したのだろうか。
 閉じられたこの空間で彼女は暮らし続けた。彼女は星座を描き続けた。窓のないこの塔の中では、何日経ったかなんて、何年経ったかなんて誰にもわからない。
 少女はあれきり、あの青年の部屋には行かなくなった。波立つ海が描かれた扉が開くことは無くなった。誰も来ないのが本当なのだ。
 それが正しいのだ。
 この塔に住むのは、あの真白な少女と無機質な使用人達。それから、鎖に繋がれた鉄籠の中の青年と、この冷たい空気だけ。ここには太陽も月もない。星空も無い。偶の来客は少女の父親だけ。その父親は少女の様子を見に訪れる。その時に、塔の中の空気が、冷たい新しいものに入れ替わるだけなのだ。最後にあの子に会ってから、何年経ったのだろう。きっとあの娘も大きくなったに違いない。あの、星を掴んで引き伸ばしたような、白く輝く髪の毛も、もっとずっと長く伸びて、綺麗なドレスが似合うようになって、少し大人びた目をしているかもしれない。だが、彼女はきっと、この青年のことなど忘れてしまっただろう。こんな醜い化物のことは、忘れてしまっただろう。

 すっかり大きくなった彼女。星のように光るその髪は、腰よりずっと長くなって、風を捕まえたようなウエーブがかかっている。背も伸びて、少女の面影が消えかかるほど。でもそんな彼女の中に、彼は「優しく、あたたかく、知らなかった世界を綺麗な言葉で教えてくれた人」として残っていた。彼女は、そんな彼にどうしても会いたくなっていた。彼女は部屋から出られない。もう何年もの間、扉に鍵が掛かったままだった。食事が運ばれるその時以外、扉は開かれない。食事の時間、いつも時間通りにガチャンと鍵が開く。

「お嬢様、お食事をお持ちしました」
「そう、ありがとう」

 彼女はそう言って、出口へ走った。そして、扉を開けている無機質な使用人を思い切り押しのけた。

「お嬢様いけま――」

 無機質な使用人は、彼女の勢いに負けて後ろに倒れ、床へと思い切り叩きつけられた。
言葉の途中で、その体は陶器のように粉々に割れてしまった。大きな欠片と小さな欠片だけになったそれは、もう言葉を発することはない。もうあの面影はない。彼女の手は震えていた。彼に会うためとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまったと、彼女はそう思っていたからだ。あの使用人達は、もちろん親切にしてくれたこともあった。毎日髪を梳いてくれた。言葉とその手だけが冷たかった、あの使用人たちが、まさか本当に人形だったなんて。こんなにも簡単に、粉々に割れてしまうなんて。
砕けてしまったその体から、その欠片の中から鍵の束をすくいあげる。金、銀、様々な大きさで、頭の部分には一つ一つレリーフのように絵のついた鍵達。塔にある部屋の数だけの鍵がここにあった。彼女はそれを握って、振り返らずに塔の中を探す。振り返ってしまうと、きっと思い出してしまうから。小さな頃から一緒だった優しい人人形達のことを。ここに居る生きたものは、彼女と、あの記憶の中の彼だけ。
 彼女は、じゃらじゃらと音を立てて走る。
 冷たい、波立つ海の扉を探して。

 何度階段を上がり、何度、この同じような景色の続く緩やかにカーブを描いたこの壁に沿って走ったのか。ずっと塔の中で暮らしていた。でも、ずっと鎖の絵の扉の部屋に居たものだから、彼女はこんなに高くて広いとは思っていなかった。小さな頃の記憶を頼りにしたって、なかなかあの部屋は見つからない。彼女は後悔しそうになった。あんなことをして、いきなり勝手に飛び出して、しかも居るかいないかも分からない記憶の中のあの人に会いに行こうとしているなんて。随分と悪い子になってしまったのだわ。でも、もう後戻りは出来ない。彼女の瞳からその雫が零れ落ちる前に、彼女はようやく扉を見つけた。記憶の中の通りの、あの、波立つ海が扉に描かれた扉。

「あ、あった! ここだわ!」

 彼女は息を切らしながら、扉に手をかけた。きっとここには、あの優しい声の、優しい目のあの男の子がいるのだ。今もこの部屋に。鍵の束から、波立つ海の扉にあう鍵を探す。扉と同じマークの鍵が一本、それを鍵穴に入れて解錠する。ぎしぎしと錆び付いた金属の重たい音をさせて、彼女はゆっくりとその扉を開けた。細い隙間から、彼女の足元へ冷たくひんやりとした風が流れる。その部屋は、悲しみを煮詰めたような冷たい空気に満ちていた。

「ねえ、私よ。わかるでしょ? いないの……?」

 そう言いながら、部屋の中に入っていった。部屋はとても暗かった。扉の外から入る柔らかい光だけが、その部屋を静かに照らしていた。不安そうな足取りで、彼女は部屋の真ん中へとゆっくり歩みを進める。そんな彼女の、真っ直ぐに伸びた足元の影は、部屋の真ん中の巨大な鉄の籠の影まで、ずっと続いていた。彼女の覚えていたものは、鉄柵越しの青年の目。長い睫毛と、その隙間から見える悲しさを讃えた優しい金色の瞳。しかし、目の前にあったのは、薄暗い冷たい部屋の真ん中にある巨大な鉄籠。本で見たサーカスのような、大きな、大きな籠だった。彼女は、あの面影を求めてその鉄柵に手をかけた。そうして、中を覗き込みながら彼女は言う。

「ねえ、ここにいるのでしょう? 私よ! 私、君に会いに来たの!」

 彼女の声に反応するように、何かが動き出す音が聞こえた。湿った息、床に擦れるズリズリという音。その音が大きくなって、ゆっくり籠の中にいる何かが近づいてくる。  聞こえるのは、聞きなれない音。本物の化物の呻き声だ。おぞましく、不気味に響く悲しい声。記憶の中の、じゃらじゃら鎖を引きずる音に重なる優しい声は、もうそこに無い。この暗闇の中に、彼の面影はどこにもなかった。

「……ああ、懐かしい声だ。貴女が来てくれるなんて思わなかった」

 部屋に響く低い声。それは人間のものではなく、化物そのもの。やっとの思いで絞り出した言葉であるようだった。呻き声と、鎖の音がその声に混じっている。その中で、その薄暗い部屋の中で、うっすら輝く瞳があった。あの悲しさを讃えた優しい金色の瞳、それは記憶の中のままだった。

「ごめんなさい、もっと早く来たかった。もっと早くに会いたかったのに」

 彼女は、その綺麗な瞳からボロボロと宝石のように輝く雫をこぼす。彼は、そんな彼女を見ている事しか出来なかった。泣かないで、と言うことも、その涙を拭うことも、彼にはできないのだ。

 彼女も彼を想っていたように、彼も彼女を想っていた。ずっと、ずっと待っていた。彼女と言葉を交わすこの時を、長い間ずっと待っていたのだ。

「貴女は美しい。幼かったあの頃の面影などないほどに、とても素敵になったね。一人前の立派なレディだ。僕にはとても……」
「どうしたの?」
「なんでもないよ。僕のことなど気にすることではない」

 醜い化物、これが彼の本当。彼はただの怪物で、本当は言葉すら持たない、持つことは許されないのだ。そんな彼のつむぐ言葉は、まるで魔法のよう。人を縛る鎖になる。ゆえに彼は、本当に伝えたかったことは言葉にしなかった。彼女を縛り付けたくはなかったから。

 そうして心の中で、優しく、優しく呟いた。

「この言葉は鎖のように貴女を縛る。貴女を、貴女の未来を縛る。貴女の死を、命を、我は喰らうだろう。……だからこそ、僕は許されないことをする。それを否定する。貴女を自由に。貴女の輝かしい未来を信じて、僕はここで消えよう。貴女のこれからに、貴女の未来に、溢れんばかりの幸福があらんことを」

 僕は化物だから、こんなことはきっと許されないだろう。だが、僕は聡明な貴女を愛している。だからどうか、すべて忘れて生きてほしい。

 彼女は、その怪物のことを忘れるだろう。貴女の中に僕はいてはいけない、怪物の祈りを神は聞き届ける。彼が心の中でその言葉を唱え終えたとき、目の前の少女は、吊っていた糸を鋏で切られた人形のように、支えを失ったように膝から崩れた。彼女は目を閉じて倒れる。彼女はここに居てはいけないのだ。
 化物は、狂ったように叫び声をあげる。唸り、叫び、鉄の籠が壊れそうなくらいに激しくその体を打ち付ける。巨大な尾鰭で鉄籠を内側から叩き、うねらせる。悲しいほどに、激しい音をたて、彼は暴れ、叫ぶ。その声は悲しみを讃えている。傷ついた身体をその血と涙で濡らしながら、痛みと悲しみでいっぱいになる。それでも彼は、彼女の幸せだけを祈っていた。

 その音に気がついた世話役が、扉を開いた。

「ここにいらしたのですか、お嬢様。さあ戻りましょう」

 これでいい、これでよかったのだ。少女はきっと、目を覚ました時には彼のことなどすっかり忘れてしまっているだろう。彼はまた、この冷たい部屋にひとりぼっち。もう彼には何もなかった。もう二度と、誰も訪れることも、誰かが来るのを待つことだって無い。傷ついた身体を手当てしてくれる者も居ない。彼は、ただ静かに横たわる。光の差さない部屋が、その寂しさを強調していく。彼は、彼女の面影を求める。求めてはいけないそれを。彼女と初めて言葉を交わしたあの時を思い出す。この冷たく暗い部屋は、あの時だけ、あの瞬間だけは、温かく、まるで天井と壁に無数の星が散りばめられたように、まぶしいくらいに輝いていた。大嫌いな星空が、あんなに綺麗だ。彼女と交わした言葉。彼女の言葉。彼女の言葉からも、光があふれていた。もう戻ってこないそれを胸に抱えると、どうしてか涙があふれた。


 彼は青年の姿になる。血が滲む傷ついた身体もそのままに。青い髪も、金色の毛先も、うっすらと暗闇の中輝く金色の瞳も、彼女の記憶にあったもの。それを覚えている彼女はもういない、もうその姿を誰も思い出さない。彼女を思って、彼は眠りにつく。
 誰にも知られず、もう誰にも愛されず。
 ただ愛されたかっただけの彼は、そっと、全てから忘れ去られることを選んだ。

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( 2019.11.30発行「星を巡る魚」 収録)

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