「Ophelia」
輪の中に浮かぶ花弁。
水の内側から見える波立つ水面は、何重にも広がる輪を描く。瞼ほどの大きさの赤い花弁が一片、その波の壁に押されるように浮かんでいた。
水槽を眺めているのが仕事ではない。
私は、今日からこの研究室に配属された者だ。末端の研究員である私が一室任される日が来るなどとは思いもしなかった。感慨深い事実、こぼれたであろう涙を拭おうとしたが、顔のあたりにあげた手は金属板に当たったような音を立てた。私は何かを被っているらしい。
今、私のことはどうでも良い。
ここを任されたからには、精一杯をしなくてはならない。
この部屋にあるのは、大人が入れるほどの大きな水槽と循環機、十台弱ものモニター、管理棚の数え切れないほどの薬品類、シングルベッド大の机、そして散らかされた書類たちだ。盛大に撒き散らされたままの書類のせいで、室内は酷い有様だ。それは空き巣に入られたあとのよう。今まで誰も片付けなかったのだろうか。
その大きな水槽の中には、一人の女性がいた。水槽の中、水に、泡に揺られる彼女は、とても美しいものだった。
閉じられた瞼に長い睫毛。私はその奥に隠された瞳の色をまだ知らない。気泡に撫でられる頬や毛先は、きっと触れたら壊れてしまうくらいに脆いのだろう。身を包む白のワンピースは、風が吹いてその布を揺らすように、水槽の中の循環する水が布の端を弄んでいる。
ガラス越しに“これ”を見つめて、見守り続けて、どのくらい経ったのだろう。私が失くしたはずの大切なものは、ガラス一枚を隔てた所にある。大切だとは言ったが、私は“これ”のことを深く知らない。全く覚えていない。つまり、大切にしていた記憶もなければ、目の前の“これ”の名前すら分からない。
私がわかるのは、目の前の“これ”は、“失くしたもの”である、ということだけ。
私は時折、水槽に花冠を沈める。
私が贈った花冠を受け取ると、水槽の中にいる“これ”は、嬉しそうに微笑む。私はそれを見るのが好きだった。
それらは私の空想ではない。
私が彼女の為に花冠を用意するのは簡単なことである。そうして、それを受け取った彼女みせる、柔らかく口角を持ち上げ、あたたかいような、せつないような、あの表情を「嬉しそう」であると言い表すのだと私はしっかり覚えている。
何やら覚えのないことばかりだ。目の前の“これ”に見覚えはない。それだけではない。ガラス越しに映って見えるものにも覚えがなかった。四角い鉄の箱を頭に被る男。男が被る箱のようなそれは、確か映像を写す機械であったように思える。そのヘンテコな男が纏う白衣は少しくたびれていた。身なりくらいきちんとしたらどうか。私はその男を見る度に思っていた。
私が水槽の前に立つ時、その男もまた水槽に向かっていた。“失くしたもの”が微睡みの中で欠伸をする。それを見た私の中に何かが芽生える。私は、自分の中に湧き上がる得体の知れない感情のようなものに突き動かされるまま、水槽のガラスに手を触れた。
ふと、ガラス越しに映る男に目をやると、その男もガラスに手を触れていた。それも向かい合うように、私と反対の手で、だ。その時にやっと、私は、それが私自身であることを理解した。
あれは、虚像の私自身であったのだ、と。
先程ここへ来たばかりなのだろうか。
それとも、ずっとここに居たのだろうか。
私の記憶は、乱雑に箱に詰め込まれたコード類のようにこんがらがっている。結びつくところを間違え、離れるべき場所を間違えている。まるで、失くしてはならないものを失くしたように。
いいや、人はそうして生きてきたのだろう。辛いことは忘れてしまえばいい。分からないことは学んで知ればいい。忘れたくないことや忘れるべきでないことは、何かに記しておけばいいのだ。
今の私が覚えていることは、そう多くない。
例えば文字の読み方。
「培養のための水槽の水温は摂氏三十四度。水はただの水や蒸留水ではなく特別性の炭酸水を用意」して、水槽に入れてやらねばならない。特別性というのは、私が調合した(と思われる)薬剤が溶けているためだ。これらは机の上にある使い古された台帳に記されている。私は、記されている通りに作ればいい。ただそれだけのものであるので、私のような末端の者にでも簡単に出来る。しかし、これは誰が書いたものなのだろう。随分と懇切丁寧に記されている。まるで大切な相手に送る手紙のよう――いや、全てをなくす前に記した遺書のようである。それらに目を通す度、私はそう感じていた。
文字の読み方がわかるのなら、己が名も分かるのではないかとお思いだろう。だが、残念なことに名札は褪せ、名前の文字が滲んでしまっている。当館の、この第四研究室を預かる末端の研究員であること。名札から読み取れる情報はそれだけだ。名前が分からないのは惜しいが、私はここの管理人であるという事実があるだけで問題は無いだろう。
他に覚えていることは、花冠の作り方だろうか。乱雑な我が研究室の机の片隅に、全くといっていいほど似合わない花の束が置かれていることがある。自分で用意したとはなかなか考えにくい。きっと誰かが持ってきたものなのだろう。私はそれを手に取り花冠をこさえる。頭で考えて作っているわけではない。手が覚えている。どうして一研究員であるはずの私が花冠などを作れるのか、それには心当たりがない。
私は、“いつものように”水槽に花冠を沈める。これがいくつめの花冠であるのかは分からない。
気がつけば、水槽は増えていた。ひとつ、ふたつと増えていた。
無意識に増やしてしまうほど、私は寂しかったのだろうか。
全部で三つになった時、私は「管理をすること」というのは大変面倒なことであると知った。
水槽のひとつ、右から二番目の水槽。その中にいる“失くしたもの”が、目を開いてこちらを見ていた。私よりも小さな、その手のひらで、ガラスを内側から叩いている。ここから出して、と言っているような気がした。
私は水槽に梯子をかける。
その間も、“失くしたもの”は私を目で追っていた。水槽を上から見ることはあまりしない。炭酸水の中にいる“失くしたもの”は、両手を上へ伸ばして待っていた。
私は、その手を掴んで引き上げた。
触れた手は水温より少しだけ暖かい。水槽から出たばかりのずぶ濡れの彼女は、花冠を贈ったときのように、私へ柔らかく微笑んでくれた。
空の水槽を眺めていると、また、視線を感じた。“失くしたもの”を一体水槽から引きあげたあと、隣の水槽にいたそれも、瞳を開けて私をじっとみていたのだ。私は同様にそれを水槽から引き上げた。
子供ほどの背丈の彼女は口をきくことが出来ないようだった。もう一つの水槽から出した彼女も同様だ。容姿もそっくりの彼女達。もし、双子だと言ったならば誰もそれを信じるだろう。彼女達は、水槽から引き上げた時に柔らかく微笑んだだけ。
水槽の外に出た彼女達は、研究室の中を走り回ったり、私に抱きついてきたりと、その姿は無邪気な子供そのものだった。
私は台帳に記すことにした。今日、二つの水槽から“失くしたもの”を出したこと。彼女達は口をきけないようだということ。これは、忘れてはならないことだ。
彼女達は嬉しそうに走り回る。私にぶつかるようにして抱きついてきた彼女は、何かを言いたそうにしてそのまま私を見上げた。薄碧の瞳が私を見つめる。その意を汲み取るすべが無い私は、そうしてくる彼女達の頬を撫でてやることしか出来なかった。
部屋の時計は、無機質な針を進め続けていた。気がつけば時は過ぎ、昼過ぎを指していると思っていた短針は遠くに進み、夜の八時になっていた。彼女達は、遊び疲れた子供のようにうつらうつらしている。しかし、眠そうな彼女達寝かせる場所がない。仮眠室のベッドは固くて寝心地がとても悪い。まだソファの方がましである。
私は彼女達をソファの上に寝かせることにした。小さな手で眠そうに目をこすり、気まぐれなネコのように欠伸をする彼女達。ソファの上に乗せてやると、彼女達はそれぞれに、ゆっくりと伸びをした。仮眠室から持ってきたタオルケットを一枚ずつ掛ける。
彼女達が寝付いたのを確認した私は、ソファから落ちてしまわないように、そばの床に座り込んだ。
私はどうやら眠ってしまっていたらしい。ベッドではなく床に座り込んで寝ていたなんて。それは腰も痛いはずだ。
昨日は何日だっただろう。今日は何日だろう。私は台帳を覗く。
そこに記されていたのは、水槽の水の調合方法。その他は、乱雑に書かれたメモのようなものだ。内容は簡素である。
――今日、彼女達を水槽から出した。彼女達は口をきくことが出来ないようだ――その横には、経過日数とかかれており、正の字が記されている。
ここに一本足せばいいのだろう。私はペンを取って線を書き足す。私が足した線で、今日が七日目であることが分かった。
彼女達は眠そうにしている。座っていても、姿勢を維持することが難しく倒れてしまうほどだ。まさしく電池切れというのが正しいだろう。水槽から出てから今までの間、水や食べ物を渡しても彼女達が口にすることは一度も無かった。そのように言い切った理由は簡単だ。台帳に、彼女達が何かを口にしたなどということは一切かかれていないからだ。
眠ってしまった彼女達。きっと、もう一度目を覚ますことなどはないのだろう。
それは動くことをやめてしまった塊。
私は、彼女達を水に還した。
残った水槽は一つだけ。
その中にいる彼女は、未だに瞼を開かない。水槽の外に出て私と共にすごした彼女達よりも大人びた姿。彼女達が「無邪気な子供そのもの」であったとするならば、ここにいるのは「女性になる手前の少女」と言ったところだろうか。いや、なんと気持ちの悪い表現の仕方だろうか。自分で言っていて吐き気がした。今言ったことは一度忘れよう。
最後に残った、このたった一つの水槽は初めからこの研究室にあるものだった。ずっと私と共にあった。それは間違いようのない事実である。その情報は、私の頼りない記憶の中には何処にもないものだ。だが、間違いではない。私はそう確信している。
「……」
私は吸い込んだ息を言葉にせずに飲み込んだ。目の前の“失くしたもの”に声をかけようとし、辞めたのだ。その行為は馬鹿らしいと思ってしまった。意味がないと、そう思ってしまった。会話を試みたところで、言葉が返ってこない相手に声をかけるなどという行為はただの自己満足であるのだろう。そんなものはきっと、自問自答と変わりないのだ。
炭酸水の水槽の中で漂うだけの“失くしたもの”。彼女は起きているのだろうか。それとも眠っているのだろうか。
気泡は彼女の輪郭を撫でる。
私の代わりに、“失くしたもの”へ触れている。彼女がもし水槽の金魚であるならば、触れることは叶わないだろう。尾鰭を靡かせて水の中を舞う彼女と、二本の脚を地面に縛り付けられている私達は、全く別の生き物である。何もかもが違う。息の仕方も、体温も、意思を伝える方法も、全てが違う。
それは、例えばの話。この水槽は、彼女は鑑賞する対象ではない。彼女は、水槽を回遊する熱帯魚のようには振る舞わない。彼女はそうするべきではないし、彼女がそうする理由はない。
“失くしたもの”
私は彼女をそう呼ぶ。
その理由を私は知らない。
「君は……何を失くしたというのだろう」
私の言葉を聞いた彼女は、水槽の中で悲しそうに微笑む。言葉を紡ぐように動かされた唇は、伝うことの無い意味を溶かして水面を揺らした。
(テーマ交換創作「炭酸水の水槽、失くしたもの、テレビ、花冠」)