「祖父の書斎」

 片付けの業者が入る前に、好きなものを持っていけと言われた。
 しばらくぶりの祖父の書斎は、子供の頃の記憶とほとんど変わっていない。あの頃と違うのは、僕の目線の高さくらいか。祖父の書斎は、どんな書斎を作りたいかと本好きの人間にきいたとき、答えとして想像したものをそのまま作り表したような理想の空間だった。部屋が位置するのは、本が日に焼けないよう直射日光が当たらない向き。入って目の前にあるのは入口を向いて置かれた書斎机と大きな椅子。机の上は綺麗に片付いていて、数通の手紙と万年筆、それから黒いインクの瓶だけが置いてあった。机と椅子の後ろの壁は一面が本棚になっていて、隅には脚立も置かれている。サイドボードには乗り物や楽器を模したブリキの小物が飾られていて、ガラス戸のキャビネットの中にはコーヒーを淹れて飲むための道具が収納されていた。
 この部屋には今でもコーヒーの香りが染みついている。淹れたてのコーヒーを片手に、よく遊びに来たねと迎えてくれる祖父の姿が見えたきがした。あの肘掛け付きの椅子に腰かけて、窓の外を眺めながら、手に持ったカップからあがる湯気と香りに目を閉じ、心地よさそうな顔をする。あの横顔が羨ましくて、大人になればあんなにカッコよくコーヒーを飲めるようになるんだと幼い日の僕は思っていた。子供が遊ぶオモチャは何一つないのに、祖父の書斎へ遊びに行くのが何よりも好きだった。コーヒーの香りと、落ち着いた低い声で語りかける祖父の声、小さかった僕を膝に乗せながら、難しそうな本を選んでくれる。入口にずっと立っていないで、入っておいで。椅子ならたしか余っていた。そんな声が聞こえてきたような気がして顔を上げる。けれど、そこにはやはり誰もいなくて、空っぽの書斎が誰かを待ってじっとしているように見えた。
 祖父はコーヒーが好きで、毎日必ず飲んでいた。幼い頃遊びに行ったときには、豆を挽く様子をいちばん近くでみせてくれたこともあった。喫茶の店主よりもコーヒーを淹れるのが上手いんだと得意げに言っていた祖父は、僕の目にはとても眩しく見えた。僕には祖父のようにのめり込める趣味をつくれなかった。あの日ミルクと砂糖をたっぷりいれて飲んだコーヒーをずっと覚えている。今ではようやく祖父と同じブラックで飲めるようになった。しかし、主を失ったこの部屋は、じきに雇われた他人の手によって心無くまっさらになるまで片付けられる。祖父の過ごしたこの部屋とこの空気は、あと少しで消えてしまう。祖父は今頃空の下で、窓から眺めていた景色を見上げているのだろう。
 祖父はどうやらあまり親類と関わりを持っていなかったらしい。片付けを任された叔父が「一番懐いていたのがお前だから、好きなものを持っていってもいい」と僕に言った。懐いているといわれても、それはもう二十年も前の話だ。小さな頃は、祖父の家までは電車ですぐの場所に住んでいて、両親に連れられてよく遊びに行っていた。小学校に上がる前に遠くへ引っ越してしまってから、祖父には一度も会えていない。葬式もいつの間にか終わっていて、家を売るのに書斎の物が邪魔だと親類たちが片付けをしようとしていたらしい。そこで名前が挙がったのが僕で、叔父からの連絡ですぐここまで飛んできたのだった。あまりに急いできたものだから、大きなカバンなど持っていない。手に持って帰れるものは一つくらいだろう。
 さて、どれを選ぶべきか。持ってきていたリュックサックを、祖父がいつも座っていた椅子の上におろした。
 この中から選ぶのは随分と迷いそうだ。こんなことならもっと大きなカバンで来るんだった。目の前には読み応えのありそうな壁一面の本棚。びっしりと並んで詰まっている本はどれも分厚いものばかりだ。年季の入ったレコードプレーヤーと数枚のレコード。扱い方が分からないが、きっとこれを使って聴く音楽は最高なのだろう。愛用だった万年筆とインク。よく手入れされていて、彼が大切にしていたもののひとつなのだとわかる。コーヒーミル、小さな鉄フライパン、ガスボンベと小型のコンロ。こんなに本や紙にまみれた部屋でよく火器をつかったなと感心してしまう。一客のカップとソーサー。この部屋は祖父だけのもので、誰かを呼ぶことは一度もなかったそうだ。だからここにあるカップは一客だけ。彼は砂糖やミルクを使わなかったので、食器棚のように使われているキャビネットの中には、スプーンのひとつもなかった。その他にもまだまだ物はある。小さすぎて選ぶのを躊躇うものや、大きすぎて一人では運び出せないもの。部屋の雰囲気に合わない謎のファンシーな小物たち、この部屋には子供が好きそうなオモチャらしいものはなかった。これは僕が遊びに来ていた頃には置いていなかった気がする。


 せっかくならば、本にしよう。幼い頃遊びに来ていたころ、かみ砕いて内容を教えてくれた本があった。それがいい。思い出もある。きっと今なら内容も理解できるはずだ。壁一面に並んだ背表紙から見つけ出すのは難しい。たしかあの本は、えんじ色のハードカバーで、哲学書のようなものだったはずだ。断片的に思い出される記憶は、普段では決してつかわないような単語が多かった。そういえば表紙には鳥の絵もかいてあった。あれが出版社の印だったのか、それともただの装丁絵だったのかは定かではない。背表紙の文字を順に読んでいくと、本棚にしまわれている本は、大まかなジャンルごとに区分けしてあることがわかった。祖父は意外と几帳面なひとだったのか。そうなると、もう少し左側の下から二段目あたりが怪しい。おそらくここが哲学書コーナー、えんじ色の本は一冊だけ。手を伸ばして背表紙に指を掛けた。
 なぜか僕は入り口にいた。中腰のまま、人差し指を目の前の何かに引っ掛けようとした姿勢で。本を手に取ろうとしていたはずだ。手に取ったのだったか。手には本などない。ただ間抜けな姿勢で固まっている。一体何が起こったのか。いま着いたところだった――いや、そんなはずはない。姿勢を戻すとなぜか背中が重かった。椅子の上におろしたはずのリュックが背中にあった。僕の格好は、祖父のこの書斎に到着したときと同じ装い。違ったのはポーズくらいか。いや、ポーズなどどうだったっていい。本を手に取ったはずが、いちばんはじめの、部屋にたどり着いたときの状況に戻っている。時間はどうだろう。ここへ着いた時は丁度午後三時だったはずだ。時計、時計……時計がない。そういえば今日は腕時計をしてこなかった。書斎には壁掛け時計も置時計もない。ポケットに入れていたはずの携帯電話は見つからない。ここに居るのは僕だけだ。電車で駅まで来て、この家まではタクシーで来た。少々混乱してきたが、時間を知るのは一旦諦めよう。ここへ来た目的を思い出す。
 祖父が亡くなり、この部屋のものが処分されることになった。だから、一番祖父と縁があった僕に声が掛かった。好きなものを持って行っていいといわれた。今日持っているカバンはあまり大きくないリュックサックひとつ。持って帰れそうなものは一つだけだ。


 すこし落ち着いてきた。
 先ほどいたはずの場所まで戻る。椅子の上にリュックサックを下ろし、本棚の前に立って、えんじ色の表紙の本を探す。左側の二段目、たしかこの辺りにあったはず。あった、やっぱりこの本だ。そうして手を伸ばす。
 しかし、僕はまた書斎の入り口に立っていた。
 やっぱりおかしい。
 何かを手に取ろうとして手で触れた瞬間、書斎の入り口に来ている。来ているというよりは、戻されているのだろうか。同じ本を取ろうとしてこの状態にある。二度あることは三度ある、いや、三度目の正直か。もう一度挑戦してみるのも悪くない。もう場所は分かった。哲学書のコーナーは、左から二番目の本棚の下から二段目。少し低い位置なので、すこしかがむ必要がある。背表紙の上に指を引っ掛けて本棚から引けばいい。本が傷むからそういった扱い方はやめたほうがいいことも分かっている。ちがう、今はそれを思い出している場合ではない。僕はこの本にすると決めた。祖父との思い出がある、このえんじ色の本に。


 二度あることは三度ある、の方だった。僕はまたもや書斎の入り口に立っている。本を手に取ろうとして右手を突き出し、中腰になったあの少々間抜けな姿勢で、この部屋の入り口に立っているのである。何かを手に取ろうとして、その対象に触れるとここまで戻されるのだろうか。三度同じことが起こっているのは確かだ。本は選ぶべきではないのか。そうなのかもしれない。この部屋にはたくさんのものがあるし、別のものなら持って帰れるかもしれない。何にしようか。そういえば、レコードとレコードプレーヤーもあった。レコードの扱い方はいまいち分からないが、たとえ聴くことができなくとも、飾っておくだけでもかっこいいかもしれない。祖父もよくこれを聴いていたのか、と思うだけで何だか懐かしい気持ちになれる。意外と薄い。軽いのか、それとも重いのか。壊れたらいけないし、きっと両手で持った方がいいだろう。紙製のケースごと真上から引っ張って取ろうと覗き込みながら手を伸ばした。
 僕はやはり、書斎の入り口に立っていた。
 もうわかった。また、これではないというのか。何を選べばいいのか分からない。ちょっと自棄を起こして手当たり次第に手を伸ばしてみる。抱きかかえないと持ち運べなさそうな招き猫の置物。抱きかかえた姿勢のまま、腕の中は空っぽで書斎の入り口に戻る。ひざ掛け、万年筆、卓上カレンダー。それぞれ、掴もうとした姿勢で入り口に戻る。フライパン、ガスコンロ、ガスボンベ。これらは、何か重いものを手に持っていた感覚が残っていたが、やはり入り口に戻る。この際だから、椅子だとか、戸棚だとか、そういった大きい物に手を出してみようとも思った。やってやると袖をまくりながら、小型の家具をひとりで運び出そうとする自分を想像した。もし、それが正解だった時にはそれを持って帰らなくてはならない。さすがに一人で運ぶのは無理だ。それだけではない、椅子や戸棚を持ち帰ったところで、自室に置く場所などない。


 もう分からなくなってきた。
 一体、僕に何を選べと言うのだろうか。


 もう一度部屋を見渡す。キャビネットのガラス戸の奥。わざと隠してあるような置き方で、カップとソーサーが一客置かれていた。カップと目が合ったような感覚に陥った。呼ばれているような気さえした。しばらく使っていなかったせいかうっすらホコリがかぶっているようだ。縁をなぞるとザラザラとした粉っぽい感触がする。青の幾何学模様が映えるよく手入れがされた白地のカップへ、ゆっくり手を伸ばした。


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