「海へ(前編)」

「海へ……海へ行ったことがないと聞いたから」


 男はちいさな水槽のなかにいる彼女へ向けてそう口にした。回るのにも一苦労なほどちいさな水槽の中で、彼女は身体でくるりと輪を描いてから、尾ひれを水面に跳ねさせて、男の顔に水飛沫を飛ばした。水滴をよけて目を閉じる男は、幸福そうな顔をしている。両の手のひらにおさまるちいさな水槽にいる彼女は、目を丸く見開いて嬉しそうにくるくる回る。それを目にして、男は柔らかく微笑んだ。

 彼女がまとう赤い衣は、目の前に広がる青色に包まれて眩しく見えた。雲ひとつ無い空に、穏やかな風に凪いだ海。傾きかけた太陽は、小さな水面に反射する。ゆらゆら光る水槽でちいさな彼女はくるくる回る。

 ちいさな彼女は、はじめて見る海が気に入ったらしい。何度もくるくると回ってみせ、体いっぱいで喜びを表現している。

 男も海は初めてだった。――もしかしたら昔に来たことがあったのかもしれないが――今の彼には初めてだった。空と海を区切る線を眺めながら、静かにぽつりとつぶやく。あれが水平線というやつか。それを聞いた彼女は動き回るのをやめて、じっと男の顔をみつめた。


「大丈夫、悲しくなったわけじゃない。ただ、この景色が少し懐かしいような、そんな気がしただけだよ」


 男はどうしてそんな気持ちになるのか分からなかった。ふたつの青が溶け合わずに押しあってできたどこまでも真っ直ぐな境界は、今の彼が心のどこにも持ち合わせないはずだった何かを震わせたのだ。


「君が気に入ってくれたのならよかった。ここへ来てよかった。でも、どこか寂しさもある。あまりに静かな海だ。何もかもが消えてしまったような、静かな海だ」


 男の声音はちいさな波の音に消えきりそうなほど静かなものだった。彼女は水槽のガラスにそっと手をついて、男の方へ寄り添うような仕草をした。ガラスを隔てて、彼らは大きさの違う手を重ねる。

 もう誰もいなくなってしまった。ここもかつてはとても賑やかだったはずだ。彼の目に写る深い青は悲しみをたたえているように見えた。







 彼女は人魚だった。それも“養殖物の人魚”だ。いまでは手のひらに収まるほどの小さな金魚のような姿になっているが、元は彼と同じくらいの背丈があって、立派な尾鰭も持っていた。


 かつて、人魚はさかんに養殖されていた。

 人魚というのは、他の魚類よりも栄養価が高く、個体が大きくなりやすい。大きく育てれば当然可食部も増える。その身はほとんど食べられた。煮てよし、焼いてよし。もちろん刺身でも食える。少し癖があるが、ほどよく脂がのっていて舌触りがいい。髪や骨、鱗などを好んで食べるものはほとんどいなかったが、内臓や眼球、ひれなどは珍味として食べられていた。

 天然物の人魚は貴重であったため、めったに市場には出回らなかった。各地の海域で存在は確認されていたが、海洋研究の一任者はおろか熟練の漁師でさえも天然の人魚たちを捕まえるには至らなかった。人魚というのはとても賢い生き物だ。動きも素早く、写真に収めるにも苦労する。ある時、初めて地元の漁師が人魚を捕らえた。それを口にした漁師は、どの高級魚も敵わないほど、最上級の美味な食材であると記録を残した。それを耳にした者たちは、一度味わってみたいと人魚の肉を求めたのだ。


 人魚の肉は、物好きが集うゲテモノ料理屋や、知る人ぞ知る隠れた懐石料理店で裏メニューとされていた。ヒトとサカナが混じったような見た目の生き物の肉なのだ。人間としては共食いをしているような感覚を覚えてしまう。抵抗感があるのは仕方のないことなのだ。

 一度口にしてしまえば、とりこにならない者はいない。

 人魚の養殖がさかんになるにつれ、市場は人魚の肉で溢れるようになった。健康番組やSNSで話題になり、ゆるキャラやグッズ展開までされ、水族館にはなぜ人魚を展示しないのかと問い合わせが殺到し、各所の回線がパンクしまくった。有名になった人魚の肉は、ごく普通のスーパーの鮮魚コーナーに、ごく普通の魚介類と共に並べられ、ごく普通の一般家庭の食卓を飾るまでになっていた。給食ではホワイトソースをかけられ、冷凍食品ではフライにされ、居酒屋では刺身となって、鍋料理のつみれ、鉄板焼き屋の人気メニュー、たこ焼きならぬ人魚焼きまで出てくる始末。懐石料理では残念ながらお造りにはならなかったようだが、人魚の肉は確実に広まっていた。フレンチではメインディッシュに、カリー屋ではフィッシュカレーより人気に……養殖の人魚の肉は、国内外問わず誰もが一度は口にしたことがある食材となって広く知られていったのだ。


 だが、資源は有限。顛末はかつてのクジラ乱獲を彷彿とさせるものだった。


 人魚はもう、この広い海のどこにもいない。

 とある機構によれば、レッドリストを通り越して「絶滅」と判断されている。海にも陸にもどこにもいない。人魚養殖漁業は解体され、研究は非人(魚)道的だと非難された。人魚の肉は幻だったのだろうか。その姿だけでなく、人々の記憶からも、泡のように弾けて跡形もなく消えていった。


 このちいさな水槽に収まるちいさな彼女を除いて、この広い世界から人魚は一匹残らず消えてしまった。







 彼女は男に買われた人魚だった。

 男に人魚を売ったのは、小さなレストランを経営している知人だった。彼は流行りに乗って人魚を生きたまま仕入れたはいいものの捌く勇気がなかったと言った。譲り受けることになった男は、人助けと思いその人魚を譲り受けた。男も前までは和食店で働いていた。人魚を買った知人は、その頃からの友人だった。いまはチェーン店のレストランのキッチンで働いているが、友人とはまだ付き合いが続いている。趣味のツーリングで埠頭までバイクを走らせて、休日は一緒に釣りをして過ごすことも多かった。友人も、男も、魚を捌くのには慣れている。別れ際に、人魚を口にしたことがないといった男へ、せっかくだからその人魚を食べてみるといいと友人は言った。

 風呂桶のように大きなクーラーボックスには、水に浸かる人魚が座っている。鳴き声を持たない人魚は、ただじっと男を見つめていた。男も特に何も口にせず、そのままそれを台車に乗せて、家まで運んでいった。


 男は初め、人魚を頭からしっぽの先まで残さず食べるつもりだった。

 目の前の人魚は食用の養殖人魚である。人間に食べられるため存在している。ほかの魚介類と違わない。食べないでいる方がもったいない。どの高級魚にもまさる最上級の味。いままで人魚を口にしたことがなかった男は、その味に興味を持っていた。


 人魚は、自分がこの男に食べられると分かっていた。そのことに抵抗はなかった。ほかの魚が目の前で捌かれるのを見ていたからだ。頭を切り落として、内臓を引きずり出し、水ですすいで、さらに切りすすめていく。そうして皿に盛られたものを、人間たちは喜んで口へ運ぶ。ここにあるのは一方的な流れのみで、それ以外の道や方法はない。自分達の死体を人間たちが食べる。ただそれだけのために、ここにいる。それを疑いもしなかった。


 ただ、目が合ってしまったのだ。

 よく見ればそこにいるのは食用の魚ではない。美しい顔をした少女に、魚の尾鰭がくっついているだけである。これを人魚だと割り切って、食べることができようか。男は解体用の刃渡りの長い包丁を握っていた。しかし、その手は震えていた。これは人殺しと遜色ない。彼女を殺すことはできない。男は確信したのだ。

 人魚の方も男をよく見た。鰭の形が違うけれど、よく見てみれば、自分と似た生き物なのかもしれないと思った。人魚にだって思考する頭はある。ただ、それを伝える声や言葉を持たないだけなのだ。彼が今にも泣きそうな顔をして、包丁を持つ手を震わせているのも分かった。怖がることなどないのに。人魚はそっと彼の手に自分の手を重ねた。包丁を持つ手を引いて、自分の尾の一番太い場所まで誘導した。いままで何度も魚が捌かれる様子を見てきた人魚は、この刃を滑らせれば、自分の肉を断てると知っていた。

 男は首を横に振っていたが、彼女は男に優しく笑いかけた。

 刃を滑らせる。鱗が何枚か剥がれてぽろぽろと落ちていく。彼女は自らの尾を断とうとしている。痛みは感じないらしい。自分の身体が切れていく様を見ている。男は包丁を握っているだけだ。刃を動かしているのは彼女の方だった。切り進めていき、とうとう尾骨まで刃が到達した。骨ごと切り落とすのは、何だか嫌だった。ここまでしておいて、もう取り返しはつかないのだが、男は未だ決心がつかないでいた。彼女のほうも、ただの少女のような細腕では、骨を折るには力が足りないらしく、どうしたものかと苦戦していた。ふたりはしばらく考えてから、骨に沿ってブロックのように切り出すことにした。


 そうしてようやく切り終えた人魚の尾の半身は、大層肉厚で脂もよく乗った素晴らしいものだった。尾の一部が足りなくなった彼女は、自分の肉を見ている男をその瞳に映して嬉しそうにしていた。痛みを感じているそぶりはない。出血も少ないようだ。男は罪悪感を覚えていた。自分が肉を切り出した人魚をそっと水に戻して、足りない部位には隠すように布をかけた。彼女はその布をチラチラと捲っては、不思議そうに端を弄っていた。


 食べなくては、彼女に失礼だ。いまとなってそんな気がしていた。ブロックの一部を短冊上に切り分出して、刺身のように盛り付けた。すこし白っぽい身はよく脂が乗っている証だ。まずは醤油をつけずにそのまま口に入れた。(続く)



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