「赤い霧と銀の森」―第2話―

 少女はベッドの上にいた。
 わぁ、と一人きりで感嘆の声をあげていた。
 辺りにあるのは目新しいものばかりだった。今まで見たものの何とも違う。
 生まれ育った場所では、ベッドは眠る度に身体が痛くなるし、布団はふわふわでも何でもなかった。寝巻きなどは皆が揃いのもので、生地も何もかもが適当に繕われただけのようなもの。立派な生地の衣服は、遠征の時に身につける一張羅だけだった。少女は今日まで、それが当たり前だと思っていた。
 いま少女が寝かされているこの部屋は、彼女にとって何もかもが上等なもののように思えた。きらきらと目を輝かせながら、少女はそれを目に映していく。ウォームグレーの壁。どうやら上品な模様があしらわれているらしい。ふわふわであたたかく綺麗な寝具。眠っても身体が痛くならないベッドは初めてだった。さらさらで肌触りの良い寝巻き。刺繍入りで、レース生地の飾りだけでなくかわいらしいリボンまでついている。
 少女がこれほどまでに良い待遇をうけたのは、これが生まれて初めてだった。
 しかし少女には不安なことがあった。今まで着ていた服などはどうしてしまったのか。誰がここへ連れてきてくれたのか。ここは一体どこなのか。暢気にふわふわと堪能している場合ではないのだ。
 柔らかなベッドの上で天井を見上げている彼女はまだ気がついていないが、今まで身につけていた服はすぐ側の床頭台の上にあった。コートは森の中でなくしてしまったのでここには無いが、それ以外の全ては、綺麗に洗われたうえに、几帳面に揃えて置かれていた。その隣には彼女のものでは無いトレイとカップがひとつ。それらは綺麗に台の上で並んでいた。台のすぐ側には、道具入りの鞄や靴など、そのほかの彼女の所持品も全て丁寧に揃えて並べられている。きっと彼女をここへ連れてきた人物は几帳面な性格なのだろう。床頭台を越した先には大きな窓があり、外は銀色の森が広がっている。それは植物に薄く振り積もった雪により反射した光の色ではなく、この森に自生する植物固有の色である。隙間を埋めるように漂うのは薄く色が着いた霧。濃く立ちこめる場所では、霧のもつ色が白いもやのような柔らかな色ではなく、不自然に染る赤であるとはっきりわかる。そんな景色を切り取った別の窓辺で、少女を連れてきた張本人も同じように景色を眺めながら、紅茶でも飲んでいるのではないだろうか。

 少女は上体を起こしてみた。何やら身体の感覚が鈍く重たいようで、痛みのようなものも感じているらしい。しかし物ごとを深く考えない彼女は、それを気の所為だと思うことにしたようだ。長座の姿勢をとると、そのまま部屋の中を眺めてみる。
 部屋の中はゆったりと広い。左手側の壁には何も無い。目の前の壁は左側に出入口である扉、右側には花瓶の置かれたチェストと一人がけのソファがあり、その足元には毛足の長いラグが敷かれていた。ベッドの位置から扉までは少し距離がある。今の彼女は壁伝いに歩くことも難しいほど負傷しているので、一人で部屋の外へ出ることはまず出来ないだろう。右手側の壁には大きな窓。ベッドの周りには手が届く位置に床頭台があるだけ。そこには見慣れないカップがひとつと、彼女の所持品が置かれていた。
 ようやく自分のものをみつけた少女は、安心して少しだけ警戒をといた。伸びをしながら、すうと音を立て空気を吸い込んでみる。よく眠った気がするが、身体はやっぱり痛いので、いくらふわふわの寝具でも変わらないんだな、などと思っている。周りを見て気が済んだのか、自身の状態には全く気を向けていなかった。彼女は本来なら起き上がることもやっとの怪我を負っている。ゆえに、丁寧にベッドで寝かされていたのだ。少女は気付くべきなのである。爽やかな目覚めのはずがない。
 口が何だかすうすうするのは何だろう、何かおかしい。
 少女はここでようやく自らの異変に気がついた。何やら覚えのある不快な匂いが鼻腔を撫ぜたのだ。少女は他人より鼻が利く方だったが、そうでなくてもわかるほど、それはハッキリしたものだった。息が通った唇は嫌に冷たい。湿った唇を手の甲で拭う。視界の端には色がうつる。ゆっくりと目の前へ持ち上げると、そこには赤黒く滑る液体が付着していた。
 この不快な匂いは、よく知っている。生温い鉄の匂いと目に痛い鮮やかな色。


「ひっ……」


 取り乱した少女は、不気味な赤色が付着した手を遠ざけた。勢いよく引いた手は床頭台にぶつかり、その上に置かれていたカップは衝撃でそのまま床の上へ落ちていった。陶器の割れる音に肩を跳ねさせた少女は、恐るおそる床をのぞきこむ。無残に割れたカップの破片、それらは何故か、あの赤色に濡れていた。少女には、壊れたカップが赤い色をまとう姿が、悲しげに自分を見上げているように思えた。それはまるで、あの日、自分が穢した同胞たちの亡骸のようだった。
 少女は叫ぶ。そうするしかなかった。うわ言のように謝罪の言葉を何度も口にし、掛けられた布団を引き寄せて抱き、ぽろぽろと涙をこぼす。全て思い出してしまった。共に来た仲間はもう誰もいない。自分は動かなくなった仲間に取り返しのつかないことをした。何度も何度も噛み付いて、あの赤色で渇きを潤した。吸血鬼のように血を欲したのだ。酷く重い自責の念が少女を推し潰そうとしている。
 どうやら生を掴み取ったらしいが、それは、何の問題も無く、とはいかなかったようだ。
 その物音に気づいたのであろう。カツカツと早い足音が近づき、それが止むと扉が開いた。扉を開いたのはこの屋敷の家主である。片手にはポットとカップをトレーにのせて持っている。それは薄い赤に光る冷たい目をした女性だった。その目が自分をにらみつけているように思えた少女は、こわばる手で掛けられていた布団を引き胸のあたりに押し付け、体を小さくしている。


「気がついたのか。良かった」


 きっとその声は少女に届いていない。彼女は縮こまって、ひどく怯えているままだ。涙を溢れさせ、その手と肩を震わせている。彼女は自分が置かれている状況に気付き始めた。あの赤い瞳、目の前のあれは吸血鬼だ。自分はあの吸血鬼によってこの場所へ連れてこられたのだろう。このままここで、殺されてしまうのかもしれない。


「どこか痛むのか?」


 少女は声を震わせ、か細く「来ないで」と口にした。無理に引き寄せたシーツには指先が引っかかっていて、微かに血液が滲みはじめている。
 吸血鬼はそのままベッドに近づいた。床頭台のそばまで来ると、手に持っていたトレイを台の上へ乗せた。少女はさらに小さくなって震える。瞼を固く閉じて顔を伏せるほか何も出来ない。吸血鬼はそのまま、ベッドのそばで屈んでみせた。


「可哀想に。怯えているのか。そんなに怖がらなくていい。私は危害を加えようとしているわけじゃない」


 間近で声がしたことに驚いた少女は、一瞬、声にならない叫びのようなものをあげてから、そのままの姿勢でコテンと横へ転げるように倒れてしまった。


 少女は、またベッドの上にいた。

 わ、と驚きの声を上げたのは、傍らにあの吸血鬼が座っていたためである。移動させた一人がけのソファに座っている吸血鬼は黙ったまま、じっと少女を見つめている。
 少女が目を覚ましたとわかると、吸血鬼は少女をゆっくり起こし、座るのを手伝った。混乱して固まってしまったのか、少女はされるがままの人形さながらに大人しく黙っている。姿勢を整えられた少女は、ハッと気がつくと、吸血鬼へ向かって何かを言おうとした。瞬間、少女の口の中には、先程よりもまして不快な匂いが広がる。両手で口元をおさえるよりも、胃が中身をひっくり返す方が早かった。


「戻してしまったのか。良くないな……どれ」


 吸血鬼は少女の口元を濡らした布巾で優しく拭う。少女が戻したものは、片手ほどの量の暗い色をした血液だった。少女の方は、もう何が何だか分からなくなって黙り込んでいる。忙しなく息をするのでやっとなのかもしれない。吸血鬼は、シーツは替えておくから気にしなくていいとか、怪我が治るのにはまだ時間がかかるだろうとか、何やら優しく声をかけながら、少女の口元を拭った。その姿を見て落ち着きを取り戻したのだろう。息を整えてから、少女は恐るおそる口を開く。


「……あの、僕を助けてくれてありがとうございます。僕は、名をアラードと言います。親切な方、助けてくれてありがとうございます」


 声を掛けた相手はチラリと窓の方に目をやったあと、少女の方に顔を向けて無言で首を傾げた。その動作は話しかけられているのが自分なのかを確認しているようにも見えた。少女が返事を待つようにじっと見つめていると、吸血鬼は訝しげに少女を見つめ返した。


「親切な方……? お前は、お前達は私を殺しに来たのだろう、違うのか?」

 吸血鬼の声は、先程のような優しさや温かさのようなものが薄れていた。「ここは私の屋敷だ。銀の森の、ロサ・エデン。お前達はそう呼ぶはずだ」


 少女はその名に覚えがあった。
 銀の森の奥、そこには薔薇の咲く庭がある大きな屋敷が建っている。屋敷の主の名はロンサール。かの有名な薔薇の吸血鬼である。少女は、この吸血鬼を倒さんとして機関から派遣された。
 そのはずだったのだ。
 気が付くと目の前には、あの「薔薇の吸血鬼」が居て、自分はその屋敷の中のベッドの上にいる。それだけではなく、その対象に助けられたという事実がここにある。少女の頭はパンク寸前だった。

 ロンサールは床頭台にあるポットの中身を、コポコポと静かに音を立てながらカップへと移している。それが終わると、カップを片手に持ち、アラードに近づいた。空いている方の手でアラードの顎を掴むようにして持ち上げてから、カップをアラードの唇に付ける。アラードは何が起こっているのか分からなかった。水を飲むくらいなら自分で出来る。飲ませてくれるというのか。それにしてはやけに慎重で、何やら嫌な予感がする。カップの中は見えない。ぼうっとしていて注ぐところも見逃した。唇に触れたカップは冷めたばかりのような温度だった。カップが傾けられ、口腔にその中身が流し込まれる。


「ッ! ん……!! ごほっ」


 水にしては重たい。そうではない。これはあの赤、滑るようにまとわりつく舌触りと噎せ返る錆の匂い。


「大人しくなさい」


 咳き込んだアラードは口の中に入れられたそれを吐き出してしまった。シーツと寝巻きにこぼれたそれは、先程彼女が戻したものと全く同じものだった。むせるアラードから目を離さず、ロンサールは諦めたようにため息をついた。
 それは「仕方がない」とでも言うふうだった。
 彼女は手に持っていたカップを自分の口へ運ぶと、そのままそれを飲み干した。カップをトレイに戻してから、もう一度少女へ近づいていく。先程と同じように少女の頭を固定した。硬直した少女に、ロンサールは自分の唇を重ねる。彼女は口移しで無理矢理に少女へ血液を注いだのだ。


「飲め」


 自分の口の中のものを移し終えたロンサールは、アラードの口を手で塞いで言った。口の中に広がるその匂いは、少女にとって不快でしか無く、今すぐ吐き出してしまいたかった。


「飲み込め」


 退路は塞がれていて、飲み込む一択しか残されていない。このままだと息もできない。
 飲み込んだのを見ると、ロンサールは手を離した。少女は無理に飲み込んだためか酷くむせている。

「手のかかる奴だ。今回は一番手間取った」


 口元と手を布巾で拭きながら呟く。


「なっ……なんで、こんなことするんですか……!」


 涙目で声をはりあげた少女を横目で見ながらロンサールは返す。


「今ので最後だ。もうしない」
「なんで……今のって……」
「血液だ。吸血鬼が傷を治すにはこれが一番早い」
「僕は吸血鬼じゃありません!」


 眉をひそめたロンサールの顔には、明らかに「こいつは何を言っているのか」と書かれていた。ロンサールは、アラードが死体に牙を立て血を食むところを見ていた。血を分けてやると言ったら自分に跪いたのも覚えている。この少女が吸血鬼狩りであるのも分かっているが、先の行動を思い返せば、あれは吸血鬼以外の何であるというのだろうか。


「そう」


 ロンサールは興味が無いと言ったふうに相槌を打った。 
 アラードが寝ている間に数度血液を飲まされていたことは確実である。ロンサールの口振りから、彼女が意識的にアラードを助けたということになるのだろう。
 そんなことをするはずがない。少女は言葉を返そうとした。しかし、思考が溶かされたように頭はぼんやりとして、言葉はまとまるどころか弾けて消えた。意識を保つのもやっとで、視界はぐらぐら揺れている。座っていることが出来なくなった少女はそのまま後ろに倒れた。
 少女が目の前の吸血鬼を警戒しているように、吸血鬼もまた、少女のことを怪しく思っていた。

 ロンサールは訝しげに目を細め、目の前の少女に問う。


「お前は一体何だ?」

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