「赤い霧と銀の森」―第4話―

  半月前、自分の庭である銀の森の中で倒れていた少女は、その同胞の血を食み生きながらえようとしていた。それを見たロンサールは、その少女が自らと同じ吸血鬼なのだと思った。吸血鬼は昔こそ人間たちに恐れられ、一部に信仰されていたことすらあったのに。いまでは世界の隅に追いやられ、その数自体も減少の一途をたどっていた。数少ない同種が困っているのなら、手を貸すのが道理にかなっている。そうしてロンサールは同種の情けと思い屋敷へ連れて帰ったのだ。


 翌日にけろっと起き上がると思っていたが、少女の具合は一向に快復しない。
 吸血鬼は不死者である。どれだけの致命傷を負おうと死ぬことはないので、いくらか放置しておいても問題はない。一般的に致命傷と判断できるほどの損傷を負った場合でも、適当に止血などをして、何か生き物の血液でも飲ませておけばいい。少女に対してもこの方法は既に試した。血液を飲ませた直後、一時的に会話ができる程度の状態にはなったのだが、それ以降目覚めなくなってしまった。吸血鬼にとって適切なはずの方法が効果を示さないということは、得体の知れない少女は吸血鬼ではないのだろう。少女はいまも弱々しく息を継ぐばかりである。何もせずに放っておけば確実に死んでしまう。拾ってきた手前、このまま元の場所に戻しに行くのはあまりに非道であるように思えた。世話をしなくてはならないという責任感というべきか、それとも傷を負って死にかけている少女への哀れみというべきか。何か妙な感情を覚えていたロンサールは、少女が快復するまで手当をすると決めた。そうして今日までの間、つきっきりで看病をしたのである。


 血液の香りの誘惑は、血を食む吸血鬼にとって抗いがたいものだったが、ロンサールはただの一度も「味見」をせず丁寧に手当をし続けた。傷口に当てている布は毎日清潔なものに替え、包帯も丁寧に巻なおしていく。看病をしている間、少女を座らせれば薄く目が開いているように見えたし、食べ物や水分を口に入れれば飲み込むような動作をした。本当は起きているのではと声をかけたが、相変わらず返事はなかった。口に入ったものを飲み込むのはただの反射動作のようだ。スプーンに少量ずつしか与えられずとても時間がかかる。時折失敗してしまうこともあるのだが、何も口に入れないよりはましだろう。それだけではなく、もちろん少女は意識がないままであるため、姿勢を保持することもできない。少し目を離すと姿勢が崩れてしまう。清潔な衣服に着替えさせるのも一苦労だ。絡まった髪は濡らした布巾で拭いてから、上等なブラシで梳く。食べさせるばかりではなく、排泄の処理まで行った。


 大変手のかかる状態であったが、ロンサールにとって動かない誰かの世話をすることは、花の世話をすることと似ているように感じられた。健気に生きようとするものに手を貸す行為は苦ではなく、むしろ嬉々として続けていた。その様子は、彼女が自らの宝である薔薇を育てる時のよう――いや、幼い子供が人形でままごとをするようであったと表した方が正しいのかもしれない。返ってこないことが分かっていながらも心からの声を掛け、触れる時にはできるだけ優しく柔らかく手を差し伸べ、必要なだけの栄養と休息と愛情を与え続ける。新しい玩具を手に入れた子供のような瞳で、それを毎日、心底楽しそうに繰り返した。


 今ではもう血が滲んでくるような怪我は見当たらなくなった。塞がりはしたが、傷痕は多少残るかもしれない。怪我人の介抱には慣れていなかったロンサールだったが、彼女には十分な知識があった。意外と何でも卒無くこなす彼女にとって、今では問題ですらなくなっていた。


 少女について分かったことはほとんどない。名はたしか「アラード」と言っていたことはロンサールも覚えている。この少女は彼女の顔見知りではないし、屋敷へ招待した記憶もない。少女がまとっていた衣服には、十字を模したシンボルがついていた。そのシンボルは吸血鬼を討ち倒さんとする組織のもの。いくらか前にそういった組織ができたと耳に挟んだことがあった。少女はその組織の一員なのだろう。吸血鬼ではないようだが、おそらくただの人間でもない。少女は目覚めず何も聞き出せないまま。ロンサールは、それ以上少女について知ることができなかった。


 今は食事の時間。途中まで順調にすすんでいたのだが、少女はうまく飲み込めずむせこんでしまった。今までこんなふうになったことはなかった。ただ咳きこんでいるいるだけならよかったのだが、何か様子がおかしい。ロンサールは応急的に吐き出させることにした。


「――ほら、我慢しなさい」


 口腔の奥に差し込まれた二本の指は、舌の奥を刺激するように動かされた。反射的に誘われる嘔吐。嗚咽とともに胃の内容物が溢れる。ロンサールは吐瀉物で汚れるのも気にせず続ける。


「苦しかっただろう。もう大丈夫」


 この拍子にどうやらアラードは気がついたらしい。
 ひどく気分が悪いが、ゆっくりと目だけで辺りを見回してみる。自力で起き上がることはできない。息が苦しい。呼吸をすると喉が変な音を出す。頭と身体が重い。意識がぼうっとする。景色が真横になっている。自分は寝かされているのか。自分が今どうなっているのかわからない。目の前にいる誰かが、世話をしてくれている。一体これは何だ。自分が覚えていることは何だったか……目の前の彼女は一体誰なのだろう。


 少女の口を拭うロンサールは優しい眼差しをしていた。壊れそうなものを扱うように、ロンサールは少女へ柔らかく静かに触れている。口を拭い終えると、アラードの汚れた寝衣を着替えさせ始めた。白く透き通るような肌に、滑らかに動く華奢な手指を器用に動かしている。冷たいそれらが肌に触れる度に、アラードは胸が締め付けられる思いがした。鼓動や呼吸が早まり、感覚は締め付けられるように狭まって、さあっと全身の血の気が引いていく。――彼女が覚えていたのは本能的な恐怖だった。意識や記憶ははっきりせずとも、身体の芯が覚えている。目の前にいるのは吸血鬼だ。知らないうちに捕まっている自分は、いつ殺されてもおかしくない状況にあるのだと気付かされる。しかし、アラードは自らの中に芽生えたその感情を「恐怖」だと自覚することができなかった。

 内側にある理解のできない感情は、まとまり始めた思考を溶かして消していく。難しいことを考えるのは苦手なのに、目覚めたばかりで急に働かせた頭は考えることを拒んでいる。思考の停止は、死に瀕した際の諦めに近いものであった。少しずつ澄んでいく意識のなか、状況を掴むことは未だできていない。目の前の吸血鬼と思しき人物は、不気味なほど甲斐甲斐しく世話を焼く。何か目的があるに決まっている。しかし、その目的が分からない。

 最初はその手の冷たさに驚いた。冬の空気のように冷たく、まるで温度が感じられない。次はその動きが気になった。慣れた手つきで作業を進める。少女はその動きを目で追った。彼女の思考は停止していたが、本能は生へ縋り付くことを諦めていなかった。許容量をこえた思考が別の色にすり変わっていく。まとわりついていた死への恐怖は、不思議なことに目の前の吸血鬼への興味と好意になりかわった。

 くすんだ淡い桃色は御簾のよう。顔にかかるその前髪を手で払うと、吸い込まれそうな程に美しい薄紅色の瞳がのぞいた。ひとつに束ねられた後ろ髪は少し遅れて彼女を追っている。床頭台へ食器を移動させた彼女のスカートの裾は揺れた。片付け終えた彼女は、布団を掛け直した後、トレーを持って扉へ向かっていく。アラードは、その全てを、彼女を目で追っていた。一挙手一投足から目を離せない。

 つまるところ、彼女は自分を害するかもしれない吸血鬼へ恋心を抱いてしまったのだ。


「……まっ、て」


 か細いその声を耳に入れたロンサールは、扉に手を掛けただけでそれ以上動くのをやめた。彼女はゆっくり振り返ると、アラードの顔を見ながら移動し始める。さっきまでいた方とは反対側にまわりこみ、近くで様子を見たあと、今度はその反対側の床頭台の方へと戻っていく。蝋燭の火と自らの姿をしっかりと目で追っているのを確認したロンサールは、手に持ったものを床頭台に戻し、少女に再度近付いた。


「お前、意識は正常か?」
「え? はい。多分、大丈夫……」


 アラードの返答を聞いて、驚いたように少し固まったあと、口元を小さく緩ませ、そうか、と呟くように言った。


「あとひと月はかかると思っていた。いま自分で起き上がるのは無理だろう。まだ動くな。お前は怪我人だ」
「あの……僕、アラードと言います」
「それはもう聞いた」
「僕、ほんとうに生きてますか?」
「胸に手でも当ててみれば」


 少女はゆっくり右手を動かし、時間をかけてようやく自分の胸に当てた。手を当ててみたはいいものの、どうやらピンと来ていないようで、自分が何をさせられているのか分からないといった顔をした。ロンサールは、自分が発した言葉を聞き、それを理解して行動した少女の様子を見て、思いのほか少女の意識はハッキリしているのだとわかった。


「怪我も大分良くなったが、大事をとってまだ――」
「ここは、どこですか?」食い気味に質問を重ねる。横向きで寝かされた少女は、目の前に立つ吸血鬼をまっすぐ見つめている。言葉をさえぎられたロンサールの表情からは、穏やかさが少し消え始めていた。
「そのやり取りは前にした。あの時言ったのは、確か……ここは私の屋敷で、銀の――――」
「あッ! ぎ、銀の、森? それじゃあ、やっぱりあなたが、薔薇の吸血鬼!」
「二度も言葉を遮るんじゃない」


 アラードは思い出した。気がついた時には既にこのベッドの上にいたこと。無理矢理何かを飲まされたことを。あれは確か――口の中を滑る嫌な感触があって、いつまでも残る錆鉄の臭いがするものだった。ティーカップを満たしていたそれを、抵抗する間もなく口の中に流し込まれ、飲み込むことを強要された。温く触れ、重く滑る。――赤い、血液。
 少し思い返しただけで、アラードは激しい吐気に襲われた。
 様子がおかしいと気が付いたロンサールは、アラードの背中を擦りながら静かに声をかける。


「起きたばかりなのに無理をするから。ほら、戻してもいい」
「ひっ…………だ、大丈夫です……」


 先程嘔吐したばかりで戻すものはもうないはずなのに、身体の内側がひっくり返るような不快感がせりあがる。何とか堪えたアラードは、まだぼんやりとした目で少し遠くをみている。ロンサールは少し屈んで、その表情をのぞき込み問いかけた。


「どうだ?」
「な……なにが、です、か?」
「具合はどうだ」
「……大丈夫です」
「そう?」
「大丈夫です」


 かたくなに大丈夫だと言ってきかない少女は、すこし声が震えていた。目の前にいる彼女が吸血鬼だと分かってから、アラードはひどく怯えているようだ。ロンサールは少し心配してアラードの顔を覗き込んだが、献身的に世話をしていた先程までのような興味はもう持っていない。それどころか会話が成立しない少女に対して嫌気がさしてきていた。 少女は恐らく自分の状態がよく分かっていない。まだ怪我は完全に治りきっていないし、半月もの長い間眠り込んでいた。不調がないはずがないのに、大丈夫だと繰り返すのは、ロンサールを自分から遠ざけたいという無意識からなのだろう。


「いいか、何をするにも今はまだ駄目。回復して動けるようになったらここを出て行きなさい。それまでの間、お前がおかしなことをしない限り面倒てやろう」


 アラードは返事をするために息を整えようとしていた。身体の奥からゾワゾワと這い上がる不快感は全身を支配して、体は思い通りに動かなかった。気がついた時には心臓が飛び出てしまうのではないかというくらいバクバクと激しく心臓が拍動していて、頭が内側から破裂してしまいそうになっている。どうして良いのかわからなくなった彼女は、無理に起き上がろうとした。途端、ロンサールは彼女の肩と手首を押さえつけた。それは決して弱い力ではなかった。たとえ少女が病み上がりとはいえ、無茶をしないとは言いきれない。逃げ出すことすらできなくなったアラードは、自分の顔が濡れているような、何かが伝うような感覚を覚えた。吸血鬼は自分を押さえつけたまま見下ろしている。その瞳は血の色を写しとったように、中心から真紅に染まっていき、瞳孔が不自然に裂けていく。少女は押さえつけられたまま、ただ黙ってそれを見ていた。


「大丈夫か? 鼻血が出てる」


 ロンサールは少女にやさしく訊ねた。用意していた布でアラードの鼻を押さえる。アラードは鼻血を出してしまったのだ。固まったままの少女へロンサールがもう一度訊ねると、小さく二度ほど頷いて返事をした。ロンサールは安心したように深く瞬きをしてから、少女の前に屈んだ。ふたりの目線の高さが同じになる。少女は琥珀色の瞳で、吸血鬼は赤に染った瞳で互いを見つめた。


「目が、赤くなって……」


 吸血鬼は血に触れたり匂いを嗅いだりすると瞳孔が十字に開く。アラードはそれを知識として知っていたが、実際に見たのは初めてだった。吸血鬼は瞳を赤く染めたまま、少女の手当を続けていた。出血はなかなか止まらないアラードは、吸血鬼の赤い瞳を前に怯えた様子でいる。


「それは、お前が血を出すから。これは血の香りにからだが勝手に反応しただけ。まだ気分がすぐれないだろう。少し眠るといい」
「……いいえ」
「は? ああ……なんだ、傷が痛むのか?」
「そうじゃなくて」
「わかった。ほら、疲れたんだろう? 起きたいのは分かるが――」
「ち、ちがうんです。あの」


 やっと目を覚ましたばかりでまだ話し足りないのか、アラードはロンサールを歯切れの悪い言葉で引き止めてくる。


「何だ」
「もう少し……もう少しだけ、ここに居てください」
「なぜ? 私は食器や汚れたものを片付けに行かなければならない」
「いやです。ここにいてください、お願いです」
「どうして?」
「どうしてって、それは……僕はあなたが好きになってしまったから、その……もう少しお話がしたいんです」


 ロンサールには、その言葉が嘘であるとわかった。吸血鬼は元来物事の真贋を見抜くのに長けている。それにしても分かりやすい嘘だった。殺さないでと怯えた目で、好きだと口にするのだから。
 少女は言いつけを聞きそうにないし、まだぺらぺらと言葉を並べたがる。それを少し疎ましく思い始めていたロンサールは、このまま怖がらせるのもいいかもしれないと考えた。少女がこぼす血液を指で拭うと、それを舌先で舐めとってみせた。
 しかし、その判断は間違いだった。アラードの血液はロンサールの口に合わなかった。
 その香りは、丁寧に淹れたハーブティーに焼きたての菓子を添えた時のように、ほどよく小腹を空かせる香しいものだった。味はといえば、果物を黴が生えるまでずぶずぶに腐らせた挙句、そこに魚の腸でも混ぜて濾したものを口にしたときのような最悪な気分になるものだった。一週間は酷く後悔し続けるほど、想像を絶する不味さだったのだ。吸血鬼にとって、同胞の血は食えないものではないし、人間の血は嗜好品と同じ扱いだ。初めて口にした壊滅的な不味さは口を閉じることを躊躇わせる。手を出すのは止めておけばよかったと思いながら少女を見ると、彼女は顔を血で濡らしたまま、ひきつった笑みを浮かべ、瞳に涙をにじませながら自分の血を舐めた吸血鬼を見つめ返していた。


「……僕のこと、食べるんですか」
「食べない。不味いし」


 ロンサールにとって、目の前にいるこの少女は“弱い生き物”である。弱いものは守るべきである。愛でるべきである。そうしなくてはならない。彼女はそれを放棄したわけではない。むしろその逆だ。彼女はそれを固く遵守している。これを守らなくてはならない。そのために、目の前にいるこの個体のことを正しく知らなければならない。だが、実際には不味いし言うこともきかないし、そんな見ず知らずの奴など放っておきたかった。


「お前は何だ」
「あ、アラードと言います」


 ロンサールが聞きたかったのはそうではない。名前を言え、ではなく、素性を明らかにしろ、という意味だった。読書を欠かさず流行にも理解を示す、ロンサールは博識である。だが、残念なことに興味のない対象へ掛ける丁寧な言葉は持ち合わせていなかった。完全に目の前の玩具に飽きてしまった。話すことさえ億劫になっている。そうなってしまえば、彼女はいつも似たような語群の中から一番短い文言を選ぶ。


「だからそれはもう聞いた。アロード、私はお前の所属する機関を知っている。お前はここへ何をしに来た?」
「……ある吸血鬼の、討伐に来ました」
「そうだろうな。ここには、吸血鬼は私しか居ないのも知っているはずだ」
「あ……あの」
「つまり、お前にとって私は討つべき敵だということに――」


 どうやらロンサールはアラードの事情を知っているようだった。それをわざわざ確認するように少女へ訊ねた上、追い出すつもりは無く、完全に回復するまで面倒を見てやると言った。アラードはそれが不思議でならなかった。吸血鬼は血を食む者。やはり、生き餌にせんとして少女を拾い、家畜の手入れをするように手当をしていたと考える方が少女にとっては簡単だ。今すぐに食われてしまうのかと思っていたが、そうではないらしい。


「あの……いいですか?」
「お前は話を遮るのが好きだな」
「ごめんなさい。あなたの言う通りです」
「話を遮るのが好き」
「そこじゃないです! その前です。僕にとって貴女が敵であるなら、あなたとって、僕は敵なのではないですか。助けてくれたんですよね? どうしてですか?」


 ロンサールに思い当たる理由はいくつかあるはずだった。
 たまたま我が家の敷地内で死にかけている少女を見つけてしまったから。死にたくないとアラードが訴えたから。同じ吸血鬼だと思ったので同情したから。
 彼女が選んだものは、もちろん、一番短い文言。


「ただの気まぐれ」


 それを聞いたアラードは、むず痒そうな顔をした。 

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