「彼女は鏡に映らない」

 アラードはネグリジェ姿のペトラを見ている。純白のネグリジェを着た彼女は、寝起きのためかいつもより怠そうにしている。ほどいた髪は彼女の膝頭ほどまで伸びていて、毛先は少し遅れて後を追う。
 ペトラは姿見の前にいる。着るものなど何でもいいといつも口にしながら、毎朝姿見の前で服を合わせているのだ。用意された何着もの服たちは、並べてあるというよりも、散らかしているという言葉の方が合っている。あたりに放り投げてある数着の中から順に一着ずつ選び、手にとっては体の前に重ねる。彼女はそれを何度も繰り返しているだけ。合わせる度に、わざわざ顔を鏡へ近づけたあと、眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。それはまるで服が気に食わないというようでもあったし、前髪の加減を直そうとしているようにも見えた。別のお召し物にしましょうか。アラードは目を彼女に向けたままクローゼットの扉へ手をかける。姿勢を戻したペトラはくるりと回った。さらに半回転したかと思えば、鏡に映した背中を振り返って見ている。揺れる髪が綺麗だとアラードは黙って見ていた。


「服は別に何だっていいんだ。こだわりがないから」


 だから適当に見繕ってくれ。ペトラは持っていた飽きた様子で服を放ると、ソファへ落ちるように座った。


「気に入ったものがなかったんですか?」
「違うよ。見えないんだ。だから見ようとしている」


 アラードは斜め上を見て固まる。おそらくペトラが言ったことの意味を考えているのだろう。しかし、ペトラはアラードの頭に何の考えも浮かんでいないことを見透かしている。立ち上がってアラードの方へ近づくと、そのまま手を差し出した。その手に気づいたアラードは、彼女へよそ行きに丁度よさそうな服を一式手渡す。ペトラは無言で受け取ると、そのまま姿見の前に戻った。


「お前にはさっき何が見えていた? お前には今何が見えている?」


 服を合わせる後ろ姿。アラードはそればかりに夢中だった。今日もきれいだな、なんて呑気なことを考えているのだろう。じっと見ているだけのアラードもそうだが、いつまでも寝起きの格好のまま服を決められないペトラも相当呑気だろう。
 彼女たちの会話がちぐはぐなのはいつものことだ。ペトラはいつだって言葉が足りない物言いをするし、アラードはいつだってそれをちゃんと聞いていない。


「お前、また聞いていなかっただろう」
「え……いや、ちょっと分からないことを言われたので」


 肩をすくめて笑いながらも、アラードは彼女の後姿を見ている。ペトラはやや諦めたような顔をしながら姿見を指さした。


「違う、もう少し先だ。姿見の方だよ」


 アラードはペトラが映っているはずの板へ視線をずらす。そこには人影など何も映っては居なかった。クローゼットを閉じたアラードは、ペトラを挟んで姿見が見える場所に立ってみる。自分の姿は映っているのに、目の前の彼女は姿が映らない。鏡はそういうものだっただろうか。ペトラは、身につけているものと共に、そこに存在しないかのように映らない。答えが思いつかないアラードの思考はついに停止してしまった。


「何、簡単なことだよ」


 ペトラは続きを話しながら着替えを進めている。彼女のために仕立てられた服は、どうやら袖を通されるのを待っていたらしい。脱ぎ捨てられたネグリジェ。着丈のあったオーダーメードの服たち。決まった場所に揃うボタン。揺れるスカートの裾と長い毛先。するどく細いように感じられる指がなぞれば、その姿は完成されていく。まるで魔法のようであるとさえ思えるほど。ペトラに見とれているアラードの耳にその声は届いていないだろう。


「聞いていたか、アロード。聞いていなかっただろう。鏡のことは分かったか? 私は着替えを終えてしまったよ」
「何ですか? 今日は一等綺麗ですね主様」
「わけのわからないことを言うな。どうして着替えのときにいつも居るんだ、お前」


 寝室もベッドも一緒の二人だが、アラードは毎朝ペトラを起こさないようそっとベッドから抜けていく。アラードはペトラを起こしにわざわざ戻ってきたのだ。まだ眠そうな顔をするペトラとは違い、アラードは早起きで着替えを済ませているし、ここに来る前に食事の準備も終えている。尽くしていることに満足そうにしながら、アラードはペトラのそばにいるのだ。何を言ってもアラードはやめないだろう。ペトラもそれを理解している。やや呆れながら、彼女は言葉を継ぐ。


「姿見のことはね、簡単なことなんだ」


 いつも通り大人しく冷たい表情だったが、アラードにはなんだか悲しげに感じられた。ペトラは目を伏せて続ける。


「私は吸血鬼なのだから。鏡にも写真にも映らない」


 映らないにもかかわらず、彼女はいつもの慣れたことをしているような手つきで、鏡の前に立って服を合わせていた。彼女の姿も、彼女が持つ服も、そこにはなにもうつっていなかったのに。


「映らないと困るんですか?」
「いいや、別に困りはしない」


 ペトラはけろりと返す。いつだって、彼女は「こだわりはない」と口にする。実際そんなことはないのだろう。服を選ぶだけなのに長い時間をかけておきながら、彼女はそう口にするのだ。


「些細なことなんだ。困りはしない。困っているように見えるのか? 私はただ、毎朝鏡の前に立っているだけ……姿が映ってなどいないのに」


 放り投げられた服たちを片付けながら、アラードはペトラの考えも拾っていく。いつもより言葉の数が多いのは、きっと彼女の動揺が表れているのだろう。


「良いじゃないですか。素敵な習慣ですよ」
「意味が無いのにか?」
「映らなくたって、映ったって、どちらでもいいじゃないですか。素敵なことにはかわりがないのだから。きっと意味はあるのですよ、主様」


 ほとんど着替え終えたペトラは、閉じ忘れていた袖口のボタンを留めている。
 今日のアラードは何だか難しいことを言っている。ペトラには、なぜかそう感じられた。

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番外編なので本編には関係のない話。当たり前のようにペトラの隣にいるアラードと、服を選んでもらうのに慣れたペトラの話

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