「白の名を冠する黒百合」
「わたしを許してくれますか」
訊ねた相手の言葉が返るより前に、彼女はその首元に牙をたてた。それはまるで、血に聞いた方が早いと言うようであった。
動かない冷たいものに触れながら、彼女は一人言葉を吐く。
彼女は無名の吸血鬼。彼女の前に落ちているのは用済みの保存食。人の血を食む吸血鬼である彼女は、今しがた食事を終えたところだった。大変面倒なことに、彼女はこれから目の前の残飯を処理しなくてはならない。
気が重いわね、とため息をつく。食事が終わってただの空き容器になってしまったら、勝手にどこかへ消えていってくれればいいのに。人の死体というのは、たとえ血が抜かれていたとしても十分に重いものだから、彼女の細腕にはあまる。一体ずつ、ずるずると外へ引き摺り、土の上へ放っていくが、何度往復しても終わりがない。死体の処理はいつもわからないが、きっと外に置いておけば獣の餌にでもなるのだろう。もしながく残るようであれば、その時はまた考え直せばいい。
五体分の死体を運び出してから、彼女は天を仰いだ。屋敷の外に血を抜かれた人間の死体が五体も置かれている。誰が見ても異様な光景だろう。
慣れないことをした彼女は疲れていた。
普段は面倒なことを全て、周りにいる者に任せている。しかし、今日は何やら忙しくしているらしく、呼んでもなかなか来てくれない。誰かに頼まなくたって私にもできるのよとやってみたが、やっぱり思ったようにできなかった。まだ終わりが見えないけれど、もうやめてしまおうかとさえ思っていた。
「ああ、身体を動かしたらまたお腹が空いちゃった。困ったわ。デリバリーはまだかしら?」
地面へ座り込んでしまった彼女のもとへ、明るく人懐こい声が近づいてくる。
「ブラン様、ブラン様? ブロンシュ様?」
どうやら彼女のことを探していたようで、大声で名前を呼びながら屋敷中を歩き回っていたようだ。彼女は、いいタイミングで来てくれたと笑顔で応対する。
「まあ! サシャ! 私のお利口な私の騎士。偉いわ! それで、何かあったの?」
そんなところに座っているとお召し物が汚れてしまいますよ、と手を取り立ち上がらせる。彼はブロンシュの使いの者で、彼女の身の回りの世話をしている一人だった。自分の顔を不思議そうに覗き込む彼女をみて、彼は急いでいた用事を思い出した。
「我が君、あの大変困ったことがあります!」
「まあ、私もそうなの!」
手を取りあったまま、顔を突合せる。二人にとって、それは本当に大変なことなのだ。急いで伝えなくては、気持ちばかりが先行して、相手の言葉はきっと届いていないだろう。慌てた様子で二人は続ける。
「あのですね……人が足りません!」
「お腹が空いたの、次のはまだかしら?」
思わず声が重なってしまった二人は顔を見合わせきょとんとする。互いに何と言ったのか、もう一度確認しあったのち、二人は腕を組んで考える。
二人とも、もう在庫が無いとは思わなかった。あんなに食べたのにまだ足りないだなんて、とサシャは頭を抱えた。ブロンシュの方も、こんなにも満たされないのにもう蓄えが尽きたなんて、と困り果てていた。
際限ない底なしの空腹、吸血鬼は常に飢えている。中でもそう、彼女は特に。
「一度でいいから、浴びるほどに味わって、身体の奥まで満たされたいわ。ああ、血が足りない、まだ足りないの。もっと食べなくちゃ」
「でも、もう何にもありませんよ」
彼女は笑顔で、サシャを指差しながら言った。
「非常食があるじゃない」
その言葉を耳にした彼は、顔を真っ青にして声を震わせながら、ご冗談をとだけ言った。
番外編なので本編には関係のない話。郊外の吸血鬼・ブロンシュと、その従者であるサシャ。
いつまでも満たされることのない空腹を抱える吸血鬼と、その吸血鬼を敬愛し、殺されてもいいと思いながらもちょっとビビる人間。黒百合ちゃんと騎士たちは書いていて楽しい。