「海へ(後編)」

 ついにこの時が来てしまった。ふうと大きく息を吐いてから、男は箸を手に取った。

 人魚の刺身を一切れ持ち上げる。

 身の色は全体的に白っぽく見える。よく観察してみると、血合いから遠ざかるほどに透き通った色をして、つやつやと光を反射する。口に放り込むと、冷たい舌触りにぷりっとした弾力が合わさって、しっとりと馴染むような感覚があった。切り出したばかりなので、当然鮮度が良い。もちもちとした食感から噛むのが楽しくなってくる。そうして噛むほどに旨みが口の中いっぱいに広がり、心地の良い香りが鼻から抜けていく。脂の乗り方はすこしブリに似ている。上品な脂がほどよくのっているのにしつこく感じない。淡白な魚が好きな人だと少々苦手に思えるかもしれない。血合いは他の魚と同様に生臭さにも似たクセがあるが、なんとも言い表しにくい独特な香りが口の中に残る。不快感はなく、むしろ心地良さや懐かしさを感じるようなこの香りが人魚特有のものなのだろう。


 男は切り出した人魚のブロックをペロリと平らげてしまった。これは誰もが虜になるはずだと納得した。刺身以外にも、煮付けや焼き料理、フライに天ぷら、ハンバーグ、人魚はどんな調理法でも美味しくいただける。可食部が多い分、食感が異なるそれぞれの部位はそれぞれ適した調理法がある。人魚が一尾あれば豪華なオードブルを作ることも可能だ。男は今日、尾の一部を刺身にして食べた。まだ残りはたくさんある。空になった皿を前に、男は天井の方をぼんやりと見つめながら、次はどう食べようかと思案していた。

 人魚は、男をじっと見ていた。自分の肉を切り出す姿を、丁寧に調理する姿を、夢中で頬張る姿を、食事を終えて呆然とする姿を、ただじっと見ていた。特に、とりつかれたかのように箸を進める姿は、人魚にとって少々滑稽であった。もし人魚が声を持っていたのなら、男の姿を見ながらケタケタと声を上げて笑っていたことだろう。奴は今、人魚の肉を食らうことしか頭にないのだ。これほど可笑しいものはない。クーラーボックスに溜まった水の中で欠けた尾柄部を揺らす人魚は、機嫌の良い犬のようだ。静かに唇を歪めながら男を見つめていた。



 その夜、男は不可思議な夢を見た。

 鍵を開けて玄関扉を開く。内鍵を閉め、鍵を靴箱の上の鍵掛けに引っ掛けた。台車が邪魔で靴を置く場所がない。新聞受けにあった新聞から適当なチラシを抜き取り、玄関マットの横に敷いて脱いだ靴を上に置く。借りてきた代車は土間に置いた。こんな面倒なことになるなら外に置いておけば良かった。そんなことを考えながら、男は部屋の中まで重いクーラーボックスを運んだ。着ていた上掛けをソファの上へ投げ、ついでにテレビの横に置いているデジタル時計に目をやる。七時四十分。そういえば朝食がまだだったと気が付いた。一息つこうと思って向かっていたソファの前から離れ、そのままキッチンへ向かう。キッチンに足を踏み入れた瞬間、男は制止した。


「これは夢だ」


 口をついてでた言葉に驚いて固まった。

 目の前に広がるのは、男にとって見慣れた光景だった。家の中も、キッチンの調味料や調理器具の配置も、ここから見える窓の形も、何もおかしい箇所はない。だからこそ違和感を覚えた。どうして「これは夢だ」と言ったのか男には分からなかったが、そう口にした瞬間に目の前の景色が虚構に見えた。

 水で手を洗う感触も、“いつも通り”だ。何一つ不自然な場所はない。よく知った光景のなかの、よく知った感触だ。


 もし本当にこれが夢なのだとしたら、どうすれば目覚めるのか。男は目を覚ます方法が分からなかった。

 ひとまず普通に過ごすしかない。

 何か目的があって台所に来たことだけは覚えていた。

 何をしようとしていたんだったか。男は少し思案したあと目線を右側にずらしてみる。そこにはひとつのクーラーボックスがあった。


「そうだ、アイツにもらった魚を刺身にしようとしてたんだ」


 友人から分けてもらったイナダが一尾、クーラーボックスの中に入っている。手に取った魚を流水でよく洗ってからまな板に乗せる。鱗を取り、頭を切り落とし、腹を裂いて内臓を取り出す。三枚に下ろして、小骨を骨抜きで抜き、皮をひいた。あとはこれを刺身にするだけ。

 まな板の前に立ち、包丁を握って魚を捌く。


「イナダ? もらってきたのはもっと別の――」


 そう、もっと別の魚だったはずだ。小さく呟いたあと、男は手を止めて思案する。つい先程、巨大なクーラーボックスを台車に乗せて帰ってきたはずだ。ここにある普通の大きさの、二十五リットルのキャスター付きクーラーボックスではない。キャスター付きなのだから、台車に乗せなくても運べる。それをわざわざ代車で運んできた。何かが変だ。男はまな板の上に包丁を置いた。

 持って帰ってきたのはこれじゃない。

 足元に目を向けると、クーラーボックスは消えていた。

 つい先程、偶然手に入った上物を分けてくれると連絡を受け、友人の店へ向かった。クーラーボックスは担いで帰れる大きさではなく、初めて見た規格のものだった。まるで風呂桶か棺桶だと笑いあった。中に入っていたのは、手に持てる大きさの魚ではなかった。

 皿に盛ったはずのイナダの刺身が皿から消えた。たしか友人から貰ったのは、ごく普通の魚ではなく――。

 それに気付いた途端、体の主導権が何かにふわりと奪われるような感覚に陥った。

 妙な浮遊感。

 背後には何か大きな気配。

 落ちる影は自分を覆い隠すほど巨大だ。

 おそるおそる振り返る。影の主の、背後の大きな気配の、その姿を見ようとした。しかし、振り返るよりも後ろの影の主が動く方が早かった。男を頭から丸呑みにし、そのまま胃へと放り込んだ。男を呑み込んだのは巨大な魚のようだった。いや、あの影の形は人だったかもしれない。得体の知れない何かに頭から呑み込まれた。足の先に見えるのは、自分を飲み込んだ何かの口だ。出口はあそこしかない。狭い肉壁の中でもがくが、体の方向すら容易に変えられない。出口は段々と閉じていく。更に狭まっていく肉壁の中、身体を思うように動かせない。狭まる光を掴もうとするが、伸ばした手はただ、ぬめる肉壁の中に沈んでいくだけだった。男の虚しい努力は報われない。待ってくれと叫ぶ声は誰の耳にも届かない。たった一つの出口は呆気なく閉じられ、もう光は見えなくなった。



 男が目を開けると、伸ばした右手が視界に入った。いつもの部屋、いつもの寝室。ただいつもと違っているのは、壁とマットレスの間に挟まった状態で目覚めてしまったことだった。これは夢見も悪いはずだと男は溜息をつきながら起き上がった。



 人魚は居間のキッチンのそばに置いたままにしていた。快適とはいえない寝床、もとい風呂桶のようなクーラーボックスのなかで、彼女は一晩過ごしたはずだ。彼女の尾の一部は男の腹に収まった。頭の中に思い浮かべた彼女は微笑んでいる。昨日もそうだった。切り出している途中も、その体を刃物が通る最中も、彼女は男をじっとみて、静かに微笑んでいた。

 いや、本当にそうだっただろうか。

 手元に集中していたのだから、彼女の顔など見ていないはず。それならなぜ、彼女が微笑んでいたと思っているのだろうか。思い浮かべている彼女は先程まで微笑んでいたのに。

 頭の中の人魚の顔にもやがかかる。男の頭の中に立ち込めるもやもやとした黒い罪悪感は、消えないどころか一晩を越して増していた。生きたまま尾の一部を切り落としたのだ。なぜ頭を切り落として、締めて血抜きをしてから捌かなかったのか。なぜ、殺さなかったのか。

 昨日は、彼女を生きたままにしておくことが正しいと思っていた。だからこそ、いつも魚を捌く時とは違う方法をとった。だが、それは本当に正しかったのだろうか。いや、人魚を食べること自体が“現実からかけ離れた行為”だ。それらは本当に正しいのだろうか。なぜ彼女は微笑むのか。なぜ痛みに叫ばないのか。なぜ彼女は、傷つけられ、食べられることを受け入れるような素振りをするのか。

 血のにじむ白い断面はひんやりとしていた。

 これはまだ夢の中なのかもしれない。

 人魚の肉は今まで食べた何よりも旨かった。

 俺は何かに食われたはずなのに。

 寝起きのせいか、思考がぐちゃぐちゃになる。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。いまは希少な人魚が手に入ったところから、現実感がなくふわふわとしていた。微笑む人魚に見つめられながら、彼女の肉を目の前で食らう。これのどこが“普通”なのか。

 人魚の肉の食感を思い出す。香りを、味を、舌触りを。そうしてそれを飲み込む。固唾とともに空の感触を飲み込んだ。


 これが現実ならば、人魚はまだこの家の中に居るはずだ。男は、人魚の存在を確認すべく、クーラーボックスの中を覗き込んだ。そして、そのまま固まった。


 人魚はふたまわりほど小さくなっていた。

 少女のような見た目をしている。男を見つけると、人魚は嬉しそうに笑った。無邪気に笑いかける姿は、男を混乱させた。それだけではない。人魚の尾の傷がなくなっていた。昨日、自分が切り出して食べた箇所に、傷一つ付いていないのだ。鱗の一枚も剥がれていない。刃物が通ったなどまやかしだったかのように。

 傷がなくなったかわりに縮んだとでもいうのか。いや、そんなはずは。

 人魚に目をやると、彼女は楽しそうに微笑んでいる。どこかを痛がる素振りもない。ふたまわりほど小さくなった理由は分からなかったが、男は人魚の生態に詳しいわけではなかったので、そういうこともあるのだろうと思うことにした。

 それに、まだ食べる分が残っている。


「人魚が目の前にいる。だから、これは現実なんだ」


 男は自分に言い聞かせるような声で呟いた。


 今日も男は人魚を食らう。

 朝食に並ぶ焼き魚は、鮭でも鯖でも鯵でもなく、人魚の肉だ。焼いたハラスを白飯と合わせて口に運ぶ。ほろほろとくずれる柔らかな身は、人魚独特の風味とグリル焼きの香ばしさが合わさって食欲をそそる香りを立てる。付け合せのおひたしは主菜の人魚をより引き立てる。最後に濃いめの味噌汁をくっと流し込む。最高の朝食だ。


 昼はアクアパッツァにした。人魚をつかったアクアパッツァを作った。ガーリックでソテーした人魚の肉を、白ワインやトマト、オリーブオイル、アサリと併せて煮込んでいく。魚介の旨みたっぷりに仕上がる逸品だ。締めにパスタにしたのが最高に旨かった。淡白な背側の肉がよく合った。


 夜は土鍋で人魚の炊き込みご飯を炊いた。表面をカリッと焼いた人魚の香りが鼻腔をくすぐる。昆布出汁と混ぜて土鍋で炊く。火加減を調整しながら、炊きあがりを想像して心が踊る。炊あがる直前に強火にしておこげも作った。蒸らし時間を終え、蓋を開けるとぶわっと湯気があがった。既に湯気すら旨い。見た目は鯛飯にも似ているが、出汁の風味と人魚の香りが混ざりあう。


 男は毎食手をかけて人魚御膳を作った。それでもまだなくなりそうにない。もっとほかの部位も食べたい。ヤミツキになる味だった。男は飽きることなく次の日も調理を続けた。

 新鮮なうちに。人魚の肉が尽きぬうちに。全てくらい尽くさねば。


 新聞受けには何日分もの朝刊が突き刺さっている。家の外に出なくなった男はまだ気が付いていない。これまで何の仕事をしていたか、どう向かっていたか分からなくなっていた。男はずっと家にこもって人魚料理を楽しんでいる。冷蔵庫には新鮮な野菜や人魚に合いそうな貝類が入っていて、何故か尽きることはない。買い出しに行く必要もない。働きに行く必要もない。

 人魚を捌き、調理して、腹いっぱい食っては洗い物をするだけ。それをずっと繰り返した。


 毎晩同じ夢を見る。

 毎朝目が覚める度に、何かがぽっかり抜け落ちたような感覚がある。


 男には、何を忘れてしまったのか分からなかった。

 覚えているのは、だれかから養殖人魚を譲り受けたこと。今では小さな金魚鉢に収まるほどになっている人魚は、最初は大きかったこと。自分はこの人魚を食べたこと。

 自分の名前も、職業も、この町の名前も、何もかも、男はもう覚えていない。

 もう食べれる部位は残っていない。


 男は、もっと人魚の肉が欲しくなった。仕入先を探そうにも、該当する場所がどこにもない。それだけではない。人魚を食べたことのある人間はどこにもいないのだ。

  かつての人魚食ブームが嘘だったかのように、記憶も文献も何もかも消え去った。ネット上のどこを見てもない。検索しても該当なし。目の前には人魚がいて、男にはそれが人魚だと認識できている。だが、それ以上のことは何も分からない。

 新聞の広告にも人魚食について何か載っていたはずだ。男は新聞受けに向かった。何日も家を空けていたかのように新聞が溜まっていた。十日分近くあっただろうか。いや、それよりもあったかもしれない。隅々まで確認すると、しばらく前の新聞に、人魚が絶滅したと宣言されたことがひっそり載っていた。それ以外は「人魚」の文字列はどこにも見当たらない。もう一度その記事を読もうとして読み返したが、なぜか見つからなかった。急に記事の内容が変化するわけがない。しかし、不思議なことに、それらの文字が全く目に止まらなくなったのだ。存在を知覚できなくなったと言うべきか。

 まるで、存在してはならないと世界が決めたように、全てが消え去った。


 人魚と出会ってからの記憶はぼんやりとある。それ以前の記憶がない、自分が今まで何をしていて、どこにいたかも分からない。

 なんとなくつけていたテレビから聞こえた波の音が、なんだか懐かしいような気がした。


 彼女もそう思っていたのだろうか。男は、画面に映る波を目にした彼女の横顔に、少し悲しみの色が見えた気がした。

 海までの道を調べる。この辺りは港に近い方の地域だが、海に面した場所に行くまでは結構距離がある。電車で向かうのが一番 早そうだ。海へは翌日向かうことにした。


 ちいさな彼女をちいさな水槽へ移す。縁日の小さな金魚のようだ。一週間前、初めて会った日には、もっと立派で大きな姿をしていた。大の大人も余裕で収まりそうなほど大きなクーラーボックスに、湯船に浸かるようにして収まっていたのだ。いまの彼女をそのクーラーボックスに入れたなら、一匹だけの金魚すくいのようになってしまう。


 海へ向かう途中に、アンデルセンが書いた「人魚姫」を思い出した。



 ――人魚の末の妹は、嵐で難破して海に放り出された王子を助けたことから人間に興味を抱いた。人間は、死後は泡となって消える自分たち人魚とは違い、魂を持って天国へ行くという。魂を得るためには、人間に愛され結婚しなければならない。人魚は美しい声と引き換えに、尻尾を人間の足へ変える薬を海の魔女から得た。王子と仲を深める人魚だったが、王子は彼女ではなく別の姫君と婚姻することになった。王子はその姫君が自分を助けたと勘違いしていたのだ。悲嘆にくれる人魚の前に、彼女の姉たちが短剣を差し出す。髪と引き換えに海の魔女から得た短剣をつかえば、王子の流した返り血を浴びることで人魚の姿に戻れるという。しかし、王子を殺すことと彼の幸福を壊すことを選べず、人魚は海に身を投げて泡となった。泡となった彼女は風の精霊となる。風の精霊は、人魚と同様に魂はないが、人の手を借りずとも三百年勤めれば魂を自力で得られるという。彼女は新しい仲間たちとともに飛んで行った。――



 人間に近づいた人魚は、それをきっかけに人間を知った。風の精霊となった彼女は、王子たちのもとから去る際に涙を流す。彼女が流した涙は、愛した王子と添い遂げられない悲しみによるものなのかもしれない。彼女が初めに望んだものは、年月はかかるがいずれ手に入る。しかし、彼女の幸福はどこにあったというのか。

 男が手元の水槽を眺めると、ちいさな人魚がそこにいた。人間に食べられるために生み出され、人間の手の中で生きる。人魚の生死を人間が握っている。養殖場生まれの彼女を海へ返すのは、間違っているのかもしれない。すっかりちいさくなってしまったから、他の生き物に狙われることもあるだろう。彼女は何を望んでここにいるのか。


「海へ……海へ行ったことがないと聞いたから、君をここへ連れてきた。君から聞いたわけではないが、養殖場生まれの君は海が初めてだろう。海が君を歓迎してくれるといいが」


 水槽を落とさないよう気をつけながら、ブロックを登って水際まで降りた。

 男の手から攫うように、ちいさな水槽ごと海水の中に引き込まれていった。鮮やかなな色の小さな背が海の中を泳ぐ姿を目にする。穏やかだった海は、人魚を迎えて賑やかにうねった。






 数日後、男の死体が見つかった。

 発見場所は男の自宅のキッチン。第一発見者は小料理屋をしている友人だ。大きなクーラーボックスのそばで倒れており、血痕はなく、極小量の砂が床にこびりついている奇妙な痕跡がキッチンとクーラーボックスを繋いでいた。男の死体は死後二週間ほどが経過しているとの見解だった。キッチンにはまな板と包丁が用意されており、男は調理を開始しようとしたタイミングで何者かに襲われたと考えられた。大きなクーラーボックスの中は、水が入っていた痕跡と男の血液のほか、汚れた布巾が一枚入っていた。付着した汚れは判別不能のものだった。


 部屋には赤紫色に透き通った鱗が何枚か落ちていた。しかし、誰ひとり気にもとめなかった。いや、気付かなかった。人魚のうろこは誰にも視認できなかった。


 人魚は確かにここにいた。

 たった一人の観測者が消えた今、人魚はもうこの世界のどこにもいなくなった。最後の人魚の行方は誰も知らない。


next >

あとがき:およそ食レポだった。

inserted by FC2 system