「赤い霧と銀の森」―第1話―
ここは霧が立ちこめる深い森。草木は銀に染まり、斜めに指す陽が霧を赤く染めている。赤い霧の中、少女はたった一人で死体をあさっていた。
口元は暗い赤色に濡れ、髪にも服にも同じ色のものがこびり付く。変色した血液は、少女が吐き戻したものでもあり、少女自身から零れたものでもあり、少女が浴びたものでもある。主を離れた赤色は、時間を経て遠に鮮やかさを失っていた。どろどろに固まった半固形と液体が混じったそれは、触れるのも見るもの気持ちがいいものでは無い。いま、少女が口から溢れさせたそれは、彼女自身のものではなかった。
きっとこうしないと死ぬ。
今、ここで死ぬのは嫌だ。
少女は本能的にそう感じている。
それは正しい。
彼女が今動かなければ、彼女の命は消えてしまうだろう。それはゆらぎない事実である。だが、それよりも先に、彼女は彼女でなくなってしまう方が早いかもしれない。
彼女は彼女でなくなってしまう。つまり、無辜の少女が行き着く先は、存在を許されない、どこかの何かの成れの果てであるのだ。少女に打つ手がなければ、悲しい
そうならない為に、一人の少女に残された手段はひとつしかなかった。
雪の上にはいくつもの動かない塊が転げていた。倒木や切り株ではないし、何か森に住む動物の影でもないもの。それは、まだ温度のある死体。つまり、先程まで生きていたもので、人間だったものであった。
少女は死体が転がる中、たった一人取り残されているのだ。
ひとつの死体を少女が選ぶ。雪原に伏せる死体の頭側に座り込むと、少女はその喉元へかじりついた。体内に残された血液を求め、必死にかじりついたのだ。その姿はまるで吸血鬼のようであった。少女がこのような行為をするのは本能ゆえであったのだろう。しかし、これが非効率的だと言われれば反論のしようがない。本当にその通りである。不慣れな少女が無理に頚部へ噛み付いても、うまく牙を突きたてられるわけではないから、それは歯を立てて噛んで滲むほどの量しかなかったのだ。それならいっそ、ナイフで死体の喉を掻き切った方が早い。惜しいことに、理性を失いつつある少女の頭では、道具を使うという選択肢にたどり着くことは困難だった。拙い方法で噛み付いてえられる血液は微々たるもの。その程度では、少女の“飢餓感”はおさまらない。
一心に、何度も噛み付いてみてもそれは変わらなかった。歯が皮膚を貫く感触と同胞の血の香り。頭に響くのは己の拍動と呼吸。少女は涙を流した。ただ、純粋に辛く苦しかったのだ。満たされない飢えが、死した同胞たちのうつろな目が、それを穢す自分の存在が。全てに絶望したのだ。
少女は吸血鬼ではない。だが、吸血鬼に全く縁がないというわけでもなかった。
吸血鬼は悪である。ゆえに滅するべきなのだ。生まれた時からそのように刷り込まれてきた少女は、今では吸血鬼討伐の任を与えられた部隊の一人であり、種の分類上はダンピールという存在だった。
かねてより存在していた
吸血鬼討伐の任というのは、ある機関からダンピールのみに与えられた役割だった。加えて、同時に与えられた道具箱には、吸血鬼を殺すために必要なものが用意されている。銀でできたナイフや、大蒜、十字架、聖水、白木の杭など。俗に吸血鬼が苦手とされているものである。しかし、吸血鬼を倒すにはそれだけでは不十分である。毒を以て毒を制すというように、吸血鬼に対抗するには、やはり吸血鬼の力が必要となるらしい。だが、吸血鬼を殺すために他の吸血鬼が協力するとは考えにくい。そのため、人間は吸血鬼の血を混ぜた混血児を生み出し、それを吸血鬼に対抗する「モノ」としたのだ。吸血鬼を殺すためには、まずそれを見つけださねばならない。それが出来るのはダンピールだけだった。
だが、討伐隊とは体のいい言葉。それはただの消費される道具である。生み出されたダンピール達は不要となれば捨てられる、ただの道具の一つでしかなかった。
壊れた道具は、もう使い物にはならないのだ。
壊れかけの少女を襲うのは慣れない衝動。それは人間と吸血鬼の混血、ダンピールである少女の存在が吸血鬼に傾いていることを指す。少女は突き動かされるままに死体から血液を奪っていく。己が内にあるのは、自分の行動への否定的な感情。不快感。加えて、吸血行為により同時に何かが満たされていく多幸感といったところだろう。うまれて初めての吸血衝動に、彼女の本能は抗えなかった。
夢中になっている少女は気づくことが出来なかった。手を伸ばせば触れられるほどすぐ近くまで、冷たい雪を踏みしめる、一人分の足音が迫っていた。
泣きながら、少女は何度も何度も牙をたてる。まだ慣れきっていないため、上手くできないようだ。乱暴に齧り付いたとしてそれが上手くいくとも限らない。これは食事である。音を立てずにカトラリーを用いる時のように、確実に、場所を定め、静かに、丁寧に、その牙を獲物の首元へ立てねばならない。
少女は涙を流す。
本当はこんなことしたくない。ほしい。ごめんなさい。もっとほしい。うまくできない。まだ足りない。口の中が気持ち悪い。たくさん欲しい。見たくない色なのに。こんなにも自分を満たしてくれる。死した同胞を傷つけても。欲しい。死にたくない。だからもっと。ほしい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい――――。
「……馬鹿らしい。ただの死体漁りかと思えば魔の者とは」
声は上から降ってきた。少女が振り返ると、そこには少女の身長と同じくらいの背格好の少女がすぐ側に立っていた。表情を忘れた顔は冷たい目で見下ろしている。
突然のことに驚いた少女はその場で跳ねて真横に退けた。
見られた。
見られてしまった。
けれど、相手はけろりとしている。
この場にあるもの。
数体の死体。これは少女と同じ討伐隊の構成員だったものと、彼女らを襲撃した者が含まれている。
死体のそばに座る少女が一人。仲間の亡骸を漁る可哀想な少女である。
そしてその後ろに少女を見つめる一人。
淡く褪せた金色に赤を混ぜたようなくすんだ色の髪。前髪はその右目を隠し、膝まで伸びた髪は一つに束ねられていた。少女をじっと見つめる冷たい瞳は、不自然に赤く、中心にいくにつれ色は深さをましているように見える。丈の長い黒の衣服に、両手には革手袋。銀に光る森の中では、その姿は目立つものだった。
「そんなやり方じゃあ、お前は死んでしまうよ」
言葉を吐き捨てた彼女は、少女のことをじっと見ていた。少女が何をしていたか、何を求めているか、よく知っているようだった。
「……い、いや、だ……死にたく、ない!」
少女は掠れた声で叫んだ。それを聞き届けると、見知らぬその人は、右の手首を口元まで持ち上げた。歯で手首の何かを外しているらしい。ぶちぶちと何か繊維質のものが断ち切られる音がした。
「そうだな――――――そこに跪いて、顔を上げ、物欲しそうに口を開きなさい。そうすれば、お前の望みを叶えてやってもいい」
何を言われているのか、少女の理解は遅れた。言葉の意味を飲み込めなかったからだ。今まで感じたことの無い飢えを覚えた頭では、こんがらがった思考をまとめることはかなわず、得た情報を整理することも出来なかったのである。相手の出した要求自体、普通に生活していれば聞かないようなものであったし、耳を滑ってしまったのは仕方の無いことだったのかもしれない。
だが、今はそれで片付けられない。
少女にとって、これは死活問題である。
「……さあ、どうする?」
冷たい視線は少女を貫いた。
選ぶことのできる選択肢などどこにもなかった。選択肢と呼べるものはなかったのだ。少女にとって最善の手段。それは、はいと言って首を縦に振ること、目の前の得体の知れないそれに従うこと。ただそれだけだったのだから。
少女はその言葉に従った。主に忠実な犬のように。上がった息はそのまま。肩を弾ませながら、祈るように手を口元にあて、彼女へ跪く。
覚悟を決めた。
少女は乞う。醜く。生にしがみつくように。生きる権利をよこせと、そう言わんばかりに。いま、少女のなかに、惨めな気持ちなど少しもない。恥じることなど何も無い。少女にはこの先を生きることより、いまここで死ぬことの方が怖かった。
赤い霧に濡れた森の中、死体が転げる雪原で、血塗れの少女は一人跪き、その顔をあげた。
それを目にした女は満足そうに唇を歪めた。
冷たい目。揺れる長髪。手袋とコートの袖の隙間から見えるのは、縫われた皮膚とほつれた糸。緩んだ手首の隙間から溢れる赤を、彼女は少女の口へ注いだ。