「赤い霧と銀の森」―第8話―

 少女は、ガラス戸棚に飾ってある人形とよく似ている。


 白い肌に澄んだ琥珀色の瞳。長い睫毛が瞬きで揺れる。明るいブロンドのウェーブを描いた細く柔らかい髪に赤いリボンは鮮やかに映える。柔らかなフリルが贅沢にあしらわれた服が良く似合う。

 静かに佇む少女は、ビスクドールのように美しい。

 ガラス戸棚の中に置かれた人形は、吸血鬼がずっと大切にしてきたものだ。吸血鬼としての生活を始めてから、初めて気に入ったものがこの人形だった。修理に出したり、似たようなものをまた買い求めたりしてずっと手元に置いている。

 使用人たちは主人が死体で遊ぶより、少女らしく人形を愛でてくれていればいいのにといつも思っていた。

 この吸血鬼には生き物や他人の世話など最後までできた試しがない。最近はしなくなったが、前までは死体で着せ替え人形ごっこをしていた時期もあった。

 一つ前に拾ったものでさえ、最初こそ気に入っていたにもかかわらず、いつもの短気を起こして手酷く追い出した。あのダンピールと思しき物の生死は使用人たちには分からない。

 これまでだって、いくつも何かを拾ってきては、気に入らなければ壊したり捨てたりを繰り返してきた。長く続いているのは読書と薔薇の手入れくらい。

 今までなんでも自分の思い通りにしてきた。短気を起こして手をあげるのは茶飯事だし、彼女のわがままを叱る者はどこにもいない。


 新しく手に入れたのは、吸血鬼が大切にする人形とよく似たダンピールの少女だ。よく躾られた従順な姿勢が、吸血鬼にとってとても好ましく感じられた。


 しかし、吸血鬼には少女が自らの命を絶とうとする理由がわからなかった。

 初めに口へ含もうとしていた薬剤は、あまりの危険さから度重なる事故が起き、現在では一般の流通が規制されている毒物だった。

 次には舌を噛み切ろうとした。なかなかの深手で、その少女は出血した血で溺れかけるほどだった。吸血鬼は応急手当をして古馴染みの医者を呼んだ。日が落ちたにもかかわらず駆けつけた彼女は、手際よく少女のちぎれかけた舌を縫い合わせた。


 医者を帰してからも、ダンピールの少女は隙を見て危険な行動を試みた。困り果てた吸血鬼は、この少女を管理していた機関へと直接連絡するに至ったのだった。


 電話口の第一声は「フランは無事なのですか」だった。


 電話に出た職員は、吸血鬼からの連絡に大層驚いていたが、フランチェスカの無事を何よりも心配していた。自ら舌を噛み切ろうとして怪我をしていると伝えると、受話器の奥から動揺が感じられた。


「この子の名前はフランチェスカというの?」

「そうです。フランは同時期に生まれたダンピールたちの中でもより虚弱なので心配しています。怪我の状況は?」

「ここに来るまでの間に転んだのか、手足にひどい擦り傷がついている。噛んだ舌先は医者を呼んで縫い合わせた。血を失ったせいかぼんやりして座ったままでいる」


 忙しなく人々が行き交う音が聞こえてくる。受話器を持つ男が他の職員へ直ぐに迎えに行けないのかと聞くと、人手が足りず難しいですと返答が聞こえた。それを確認すると、焦った様子で男は吸血鬼に訊ねた。


「しょ、食糧はあるのですか? 貴女は血を飲むので足りるかもしれないが、フランは人間と同じように食事が必要です!」

「あの子に充分食べさせる量くらいはある」

「そうですか、何か食べさせてやってください。お願いします」

「いくつか聞きたい。なぜ彼女に毒物を持たせていたの? もうひとつは、どうして彼女は死のうとするの?」

「それは――」


 ダンピールたちはよく躾られている。管理下に置かれることに安心を覚え、自由と逃走には不安と恐怖が刷り込まれている。それは人間の道具としての教育の賜物である。

 つまり、死ねと言われれば簡単に死ぬ。

 機関はそれを話しにくそうに言った。


「帰投が困難であれば自決するよう薦めています。本来であれば、ダンピールたちを自由に過ごさせたい。だが、彼と彼女たちはあまりに虚弱すぎて、我々の管理下に置かなければ片手で数えられる年数も生きられないのです。ダンピールたちには少しの怪我が致命傷になりうる。治癒力が極端に低いので」

「混血といえど吸血鬼と比べれば低いかもしれないが――」

「それが、人間よりも低いのです。自然治癒を待てば、ただの一センチに満たない切り傷でも完治するには一年以上の時間がかかります。当機関では特別に調合した錠剤を飲ませ、治癒力を人間程度に近付けて治療しています」


 吸血鬼は黙って聞いていた。機関の人間はダンピールを道具だと言ったが、その話しぶりを聞くには、ダンピールをひどく丁重に扱っている。手間をかけることを惜しむ様子はない。過保護とも思えるほどだ。


「元々、吸血鬼と人間を掛け合わせるなどという非倫理的な実験を繰り返したことによって生み出してしまったため、その全責任をもってダンピールたちを管理している状況です。管理外に出たダンピールの生存は今まで確認できた例がない。これまでにも、遺体で戻ってくる者ばかりでした。大変申し訳ないのですが、当機関の者がそちらまで迎えに行くには準備に時間がかかってしまいます。最短で一ヶ月ほど、それまでの間、どうか面倒を見ていただけないでしょうか」

「それは構わない。ここで終生面倒を見てもいい」

「……いや。それは、流石に……フランについては、“危険なことをしない”ようにと指示してください」


 通話を終えたあと、吸血鬼は機関の男が言ったように、フランチェスカへ「危ないことはしない」と約束させた。


 それから、少女は大人しくなった。

 少女が何かをする際にはいつも吸血鬼が決めた。少女は全て言いつけに従い、黙って吸血鬼に世話をされている。


 ダンピールの怪我はなかなか治る気配がなかった。治癒力が低いというのは本当らしい。

 数日後、機関から錠剤が届けられた。その錠剤からは、いつか口にしたことがあるものと似た香りがほのかにした。芳しく魅力的な香りだ――上位の吸血鬼の血とよく似ている。

 毎日錠剤をまぜて食事を摂らせると、ダンピールの少女は少しずつ回復の兆しをみせはじめた。吸血鬼は、少女に手ずから食事を食べさせ、身の回りの世話をし、毎晩寝付ける生活を楽しんでいた。

 ベッドに少女を寝かせ、少女が眠るまでの間、本を読んでやったり髪を撫でてやったりする。


 使用人たちは少し緊張している。主人の機嫌がここまで良いのは久しい。今の上機嫌から一転して、いつ大荒れになるか気が気でない。


「よく聞きなさい、フラン。ここにいる間、私のことはペトラと呼ぶように」


 使用人たちが驚いて振り返る。彼女が自ら名を名乗るなど初めてのことだった。吸血鬼はベッドに寝かせた少女の髪を撫でながら、少女の返事を待っていた。呂律の回らない言い方で、少女は吸血鬼の名前を呼んだ。


「……そう。まだ舌が痛むのか、可哀想に」


 少女は吸血鬼を見つめる。それに気付いた吸血鬼が微笑むと、少女はまた呂律の回らない言い方で、「可哀想なのはペトラ様です」と言った。

 場に緊張が走る。

 使用人のミシェルは、血で汚れたシーツを真っ白に戻す労力を想像して息を呑む。水で洗うだけでは落ちないし、どれだけの時間がかかるか。

 今回はいつもよりも長く世話を焼いていた。お気に入りの人形と瓜二つだし、吸血鬼の古馴染みは少女が誰かに似ていると言っていた。人形もその誰かに似ているからとずっと昔から持っていたものだったらしい。無意識に消えかけた面影を求める彼女の目には、何が映っているというのか。

 少女は吸血鬼を憐れむ。可哀想だと言われた吸血鬼は、静かに少女へ近付いた。


「どうしてそう思うの」


 冷たい眼差しで見つめる吸血鬼は、手が届きそうなほど近かった。フランチェスカはその寂しそうな顔をした彼女の頬を撫でてやりたかった。フランチェスカから彼女へ触れることは許されていない。彼女が上掛けからそっと手を出すと、吸血鬼はそれを優しくすくった。


「私に手がかからなくなったり、ここから居なくなったりしたら、ペトラ様は生きがいを失うのですね。貴女はずっと寂しそうで、可哀想です」


 ゆっくり言葉を並べる少女は、吸血鬼をまっすぐ見つめていた。吸血鬼は、横になる少女の隣に手をついて、少女の真上に影を落とす。そうして、そのまま少女の身体の上に顔を埋めた。



 その晩、吸血鬼は夢を見た。

 フランチェスカはペトラの手を取る。ふたりで穏やかに日々を過ごす。薔薇の園へ行こうと言い、二階の部屋から廊下へ出て邸内の階段に向かう。階段を降りようと手を離す。フランチェスカが先に降りようとした。瞬間、彼女は足を踏み外して、全身を打ち付けて大怪我を負ってしまった。折れた腕をペトラへ伸ばしながら、フランチェスカはペトラの名前を呼ぶ。階段をおりる手前、一段目を踏み外し、彼女は目を覚ました。


 目を覚ますと、隣にはいつものようにフランチェスカが眠っていた。怖くなるほど静かに眠っている。

 布団をめくって彼女の手足を確かめる。変色し折れ曲がってひどく腫れていた四肢は見当たらず、白い肌の細い手脚が当たり前にそこにある。胸に耳を当ててみれば、小さな心音がとくとくと鳴る。呼吸に合わせて少し早くなったり遅くなったりを繰り返して、頼りない音を並べていた。

 この中に収まる心臓を手のひらに乗せたなら、小鳥のような大きさで、ひくひくと可愛らしく動いてみせるのだろう。

 寝巻きの上から少女の肋骨の隙間を指でなぞる。指先から少女の熱が柔らかく伝わる。少女は今日も生きている。


 吸血鬼は、自分の胸にも手を当てた。しかし、手を当てたところで、その心臓は時折何かを思い出したかのように気紛れに拍動するのみ。少女のように規則的な拍を刻んではいない。死体から孵った吸血鬼に、人間のような機構は必要ないのだ。透明な赤い液体で中を満たして、外は人の形を模しただけ。それが吸血鬼と呼ばれるものの姿なのだ。ここに存在していても、彼らは生きていない。


 食事を済ませ、散歩へ出かける。いつもより機嫌のいい吸血鬼は、フランチェスカの手を取って屋敷の中を歩き回った。側仕えにミシェルを連れて、吸血鬼の少女は、ダンピールの少女と屋敷の中をめぐって遊んだ。

 ふと、今朝見た夢を思い出す。薔薇の園へ向かおうと、手を引いて階段に近付いた。階下へ降りようとして足をう踏み外したフランチェスカは、そのまま階段から真っ逆さまに落ちたのだ。

 夢の中の二の舞にならないよう、吸血鬼はフランチェスカの手をとって階段を降りた。


「私が手入れをした薔薇の花をお前に見せたいと思って」


 声を弾ませる吸血鬼をみて、フランチェスカは柔らかく微笑む。足元から目を離した彼女は、夢で見た光景と同じようにそのまま足を踏み外した。

 同行していたミシェルは、瞬時にするすると体を解いて、階段の手すりと落ちかけたフランチェスカに巻きついた。それはアーチに絡まる蔓薔薇のような姿になった。フランチェスカは階段の途中で薔薇のつるに引っかかっている。怪我はなく無事だった。

 そこにいたミシェルの姿はどこにもなく、彼女が着ていた服の上には上品な良い香りの薄桃色の花が一輪落ちていた。


 突然のことに言葉を失って、フランチェスカは放心している。吸血鬼の手を取って、薔薇のつるから身体を外した。薔薇の棘に引っかかってフランチェスカは指先を切ってしまった。それを見た吸血鬼は、フランチェスカに絡まっているつるを庭鋏で切った。白いつるの切り口からは赤い汁が滲んでいる。

 二人は手を繋いで階段をおりる。フランチェスカを階下に残して、吸血鬼はミシェルがいた場所へ向かった。薄桃色の薔薇一輪と彼女の服を拾うと、フランチェスカの元へ戻る。


「さあ、行こう」


 吸血鬼が手を差し出すと、フランチェスカは不安そうにその手をとった。


 アーチやトピアリーを巡って、庭園を散策する。隅々まで手入れがされたこの庭は、彼女の自慢の宝物だった。様々な薔薇を吸血鬼は紹介した。その最中もフランチェスカは上の空で、吸血鬼がずっと手に持っている一輪の薔薇と服が気になっていた。


「……ペトラ様。あの方は、居なくなってしまったのですか?」

「いいや。ここに居る」


 蔓薔薇の前に立ち止まった吸血鬼は、手に持っていた一輪の薔薇を地面へ置いた。フランチェスカと繋いでいた手を離し、ポケットにしまっていた庭鋏を取り出す。薔薇のつるを一箇所切った。葉も茎も白い薔薇は、つるの断面も白く美しい。

 鋏の歯を開くと、吸血鬼は右手首に滑らせる。右手首の縫合糸をプツプツと切ると、彼女はその血を薔薇の上へこぼした。彼女の薔薇はその血を吸って、生き物のようにつるを伸ばしていく。つる同士が絡まりあって、少しずつ何かを象っていく。


 そこに現れたのは白い髪に白い肌をした美しい女性だった。開いていた薔薇の花は、小さく縮んで少し綻びた蕾ほどの大きさになっていた。その花は彼女の左の眼窩に収まっている。


「おかえり、ミシェル」


 ペトラはそう言いながら、目の前の白い女性へ服を手渡した。お辞儀をして、彼女は吸血鬼から服を受け取る。ミシェルと呼ばれた女性は、先程目の前で解けて薔薇のつるになった彼女そのものだった。ミシェルは彼女が左目を隠すのに使っていた目隠しを、血が流れている吸血鬼の右手首に巻き付けた。

 フランチェスカは目の前の光景を信じられずにいる。


「私の薔薇は特別なんだ。フランにも気に入ってもらえると嬉しい」


 吸血鬼の右手から赤い血が滴っている。雪原のように真っ白な草の上に赤い血が落ちていく。赤く透き通って光を反射するその様は、血液よりもベリーで仕立てたジャムやゼリーに似ていて、思わず口に含みたくなってしまう。

 少女は吸い寄せられるように吸血鬼の右手首を掴んだ。

 フランチェスカの指先にも血が滲んでいた。ミシェルに助けられた時、棘に引っかかって切った痕だった。二人の血液が混じっていく。フランチェスカは吸血鬼の手首に口を近づけた。


「フランチェスカ、やめなさい! フランチェスカ!」


 彼女の指先に滲む血を見て、ペトラの瞳は瞳孔を十字に開いて赤く染る。吸血鬼はフランチェスカが掴んできた手を振りほどいた。少女はその衝撃によろけてそのまますわりこんだ。

 血に濡れた指先を見つめる。赤く光るそれは、今までみた何よりも魅力的だった。フランチェスカは指先を口元へ運ぶ。まだ縫合糸の残る舌先で、指についた彼女の血を舐めとった。



 フランチェスカがここに来てから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。

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