「赤い霧と銀の森」―第7話―

 来た道を思い返せば、台車で出口まで運ぶのは難しい。それも二人で運ばなくてはならない。

 台車を運びながら庭園を抜けようと、来た道とは反対の経路を通っていた。すると、少女たちは見覚えのあるものが落ちているのを見つけた。それは、少女たちが持っているのと同じ鞄だった。落としてからさほど時間が経っていないような状態のものだ。台車を置いて周囲を探索する。周囲にはいくつもの見知らぬ死体が転がっていた。それは新しそうなものから、性別の判別がつかないほど損壊しているものまで様々だった。

 次のアーチに届くまで、死体は転がっていた。この辺りは死体置き場のようだ。二つ先のアーチの端に着くと、自分たちのものと似た靴の先が見えた。

 近付いてみると、そこには誰かが倒れていた。彼女たちと揃いの赤い服も近くに落ちている。これはダンピールだ。死体ならばこれも合わせて回収しなくてはならない。少女たちは身元を調べるためにピンバッジを探した。

 そこに刻印されていた番号は、今回捜索していた“アラード”のものだった。呼吸は止まっていて、心臓の音も聞こえない。赤い霧から逃げてこの空間まで追い詰められたアラードは、そのまま霧に襲われて命を落としてしまったのだろう。カタリナとレイスは、台車にアラードの死体を乗せることにした。二人で手分けして、カタリナは両脇を抱え、レイスは脚を持った。


「これを持ち帰れば任務完了だね」

「来る途中に野営した場所に戻って、残りも回収しないと」

「二人で運ぶの大変だよ。どうしてフランが」

「……一度先生のところに帰ってから、もう一回迎えに来よう」

「それだと、この“アラード”と同じになっちゃうよ。フランとはもっとお話したいのに!」


 カタリナはそのまま手を離した。持っていた物は地面にそのまま打ち付けられる。癇癪を起こしたように泣き出したカタリナをどう落ち着かせようか考えながら、レイスは足を持ったままでいた。


「……ったぁ……」


 レイスも手を離した。何か聞こえた。それも、すごく近くで。カタリナは泣いているし、近くには他に誰もいない。地面に転がっていた死体が、ぐるんと仰向けになって、顔を押えながら言った。


「いや、痛ぁ……! 信じらんない……」


 起き上がったそれは、目をこすってから辺りを確認した。庭園の中に、死体の山、その隣にも死体の山、死体と荷物、そしてレイスとカタリナ、あと台車が一台。ぱあっと表情を明るくして、レイスとカタリナに言う。


「あ! レイス、カタリナ! 僕を探しに来てくれたんですよね! よかった、これでようやく帰れる! みんなで帰りましょう、先生が待ってる」


 カタリナは瞬時にアラードの上に跨って、膝で両腕を、左手で首元を抑えた。ナイフを突き立てて、レイスの号令を待つ。レイスは鞄から小型の散弾銃を取り出して構えていた。


「わっ! ちょっと、何ですかいきなり!」

「レイス」

「僕達仲間ですよね? どうしてこんなこと」

「レイス!」


 彼女たちの今回の任務は、逃亡した対象を処分することだ。その対象の名前は“アラード”。第八期の人員と共に銀の森へ向かったが、消息不明のまま痕跡も残さず一ヶ月以上失踪していた。ダンピールたちは逃げ出すことを教えられていない。そのため、一ヶ月以上の失踪は逃亡と見なされ、機関の教えに反した危険分子と判断される。

 危機に瀕した彼らが選ぶ第一の手段は自決。遺体は機関の人員が必ず回収している。機関は、ダンピールたちの生死を全て管理している。死後も遺体を必ず回収するのは、希少なダンピールの成功例を悪用されないようにするためだ。


 第九期を取りまとめるのはレイスだ。レイスの号令で、今回の任務は果たされる。しかし、レイスは号令を出さなかった。


「カタリナ、拘束して」

「……え、どうして? 先生は処分しなさいって」

「台車を運ぶのを手伝わせようと思う。処分なら、連れ帰ったあとに先生たちがしてくれるよ」


 少女たちは台車の荷台に同胞の遺体を乗せ、持ってきたシートと紐で括った。ついでにアラードも台車の持ち手と括りつけた。不服そうにしているが、逃げ出すこともできないのでアラードは大人しくレイスの意向に従った。

 無事に森を抜け、少女たちは台車を運んで車まで戻ってきた。男たちは拳を突き上げて喜んだ。一人、来た時と違う少女に変わっていたが、彼女たちの様子から深く聞いてはいけない気がしていた。行きの様子とは違い、少女たちからは少し怪訝な雰囲気がある。しかし、同行した男たちは、彼女たちを無事に連れ帰ることができて安心していた。


 機関の施設に着くと、遺体は専門のスタッフたちに回収され、焼かれた後に墓地へと埋葬されることになった。アラードは拘束を強化されて、施設内の拘留所へ連行された。


 少女たちは帰ってきた報告をしたくて、先生を探していた。少女たちが先生と呼ぶのは、機関のこの研究施設で所長を務める男のことだ。彼は医者でもあり、虚弱で繊細な彼女たちの治療にも携わっている。

 施設の中を歩き回って探していると、検査室からでてきたスタッフに、所長ならいつもの場所にいるだろうと言われた。


 モルタル壁の特別な談話室。中には椅子とテーブルが一組ずつ。壁には通気口ほどの穴が一つあり、そこには格子が付けられている。その隣には厳重に管理され開くことのない扉が埋まっている。


「先生、ただいま!」


 カタリナとレイスは先生に抱きついた。よく帰ってきたねと頭を撫でると、二人は泣き出してしまった。レイス、カタリナ、フランチェスカ、三人揃って帰ってくるようにと言いつけを守れなかったと泣き出してしまったのだ。

 何があったのかと彼が聞くと、彼女たちは薔薇の吸血鬼に会って台車を借りたと話した。それを聞いた彼は笑った。ロサ・エデンが台車を貸してくれるなんてと壁の奥で別の笑い声も聞こえた。


「あ! お父様もいる! いま笑ったでしょ。ねえ、お父様も待っててくれたの?」

「待っていたよ。おかえりの握手でもするかい?」

「する! お父様はいつも手しか見えないもんね、はい握手!」


 カタリナは嬉しそうに格子越しに手を握っていた。レイスは浮かない顔のままでいる。言いつけを守れなかったことを、彼女は自分の中で何よりも重くとらえていた。

 生きて帰ってきたのが何よりの功績だと言われても、レイスは納得しなかった。


「ねえ、先生。早くフランを迎えに行かなきゃ」

「大丈夫だよレイス。さっき連絡がきた。迎えに行くまでの間、彼女が預かってくれるそうだ」


 カタリナとレイスは目を丸くして固まった。






 置いていかれたフランチェスカは泣いていた。どうすればいいか分からなかった。

 吸血鬼は人や生き物の血を食む。吸血鬼のなかには、死ぬまで血を飲んだり、食料として家畜のように飼ったりする者もいる。そう教えられていた。自分もこれからそうなるのだと想像した。

 フランチェスカは思い出す。先生は言っていた。森からの脱出が叶わなければ、自決するようにと。

 自決用の薬物は、渡された服の内ポケットに入れられている。口に含んで奥歯で噛むだけでいい。フランチェスカが内ポケットへ手を入れる。先生の言う通りにしていたら安心だ。死はいつも身近だったので恐ろしくない。知らない場所で酷い目にあって生かされる方が恐ろしい。それを口に含む直前、後ろから吸血鬼が彼女の手首を掴んだ。

 薬物やナイフなど危険物を没収すると、彼女の腕を掴んで立たせた。どこに連れていかれるのか分からないまま、フランチェスカは吸血鬼に腕を引かれたまま歩いた。


 着いた先は浴室だった。

 施設では泡をつけられて全身の隅々まで擦られていた。清潔動作の一環なのは理解していたが、食器のように擦られて水をかけられるだけの時間は、フランチェスカにとってあまり好きではない時間だった。それを思い出したのか、フランチェスカはずっと泣いたままでいる。

 吸血鬼は泣いている少女に構うことなく少女の服を脱がせた。膝や手のひらを擦りむいた跡が痛々しい。ぺたぺたと肌に触り少し考え込んだあと、使用人を呼びつけて各寸法を測っていった。その後はいい香りのする石鹸で優しく洗ってやった。フランチェスカの下腹部にある手術痕が気になるようで、彼女は何度も撫でていた。


 無事に入浴を終え、用意された服に袖を通す。フランチェスカは泣き止まないが、吸血鬼は気にしていなかった。擦りむいて怪我をしている膝や手のひらの手当をしてやった。甲斐甲斐しく世話を焼くのが楽しいようだ。大人しく従順そうな少女を手に入れ機嫌がいい。

 フランチェスカは物品を没収された今、どう自決しようか考えていた。首をくくるにも紐や布が足りないし、飛び降りるにも二階建ての高さでは骨折程度で済んでしまう。現実的ではないが、この状況下であれば舌を噛み切るくらいしかできない。

 部屋には吸血鬼と二人きり。吸血鬼は椅子に座らせたフランチェスカの後ろに立って彼女の髪を梳いている。顔の見えないこの向きなら、吸血鬼に邪魔されないだろう。

 少女は自らの舌を噛んだ。何度も噛んだ。舌を噛んでの自決は、失血死か窒息死のどちらかになるだろう。そのためには舌を噛みきることができればなお良いのだが、痛みが強く難しい。口の中が血で満ちて、唇の隙間からも漏れだした。


 吸血鬼はフランチェスカの様子がおかしいとすぐに気付いた。呼吸が早く血の匂いもする。

 片手でフランチェスカの顎を掴むと、少女が自分の舌を噛み切ろうとしているのが分かった。舌を噛む歯の隙間から親指を入れと、血液と唾液の混ざったものが口から溢れる。フランチェスカは抵抗するように、無理に口を開けようとしてきた彼女の指を噛んだ。

 指を噛まれた吸血鬼は、息を呑んだ。

 口角をゆっくり持ち上げて、もう片方の手をフランチェスカの頬に添えた。そのまま顔を近付けると、彼女は唇を重ねた。溢れる唾液と血液を嚥下し、噛ませた指の隙間から舌をさしこむ。まだ血のにじむ少女の舌と絡めて、口腔内を撫で付ける。

 フランチェスカは吸血鬼の服を掴んで身体を押した。吸血鬼はびくともしない。噛まれた指で少女の涙を拭うと、吸血鬼は少女の頭を両手で包んでより深く舌を這わせた。

 少女の口の中を探るように舌で撫で上げ、血液を残さず拭き取る。舌の噛み跡を撫でた時には、痛みから少女が身体を強ばらせた。

 あまりに長い口付けに、少女は息を継ごうと顎をあげる。苦しそうに胸をふくらませる少女から血の味がしなくなった。

 吸血鬼はようやくフランチェスカから離れた。

 その手は強ばったままで、吸血鬼の服を掴んだままでいる。手首を掴んで服から手を外した。フランチェスカは酸欠のせいか苦しそうに息を継ぐ。


 まだ落ち着かないフランチェスカの顎をもう一度掴んだ。彼女は身構えたが、吸血鬼は「口を開けなさい」と言った。

 恐るおそる開いてみると、吸血鬼はフランチェスカの口の中を観察した。


「もう血は出てないから大丈夫。でも、もうしないで」


 フランチェスカには、吸血鬼が寂しそうな目をしたように見えた。彼女を座らせ直すと、再び椅子の後ろへ戻って髪を梳いた。フランチェスカはこの屋敷にきてから初めて泣き止んだ。大人しく座って髪を触られている。

 何をされたのかわからなかった。

 血でいっぱいで痛かった口の中が、彼女に触れられている間にそうじゃなくなった。このまま死なせて欲しくて、離して欲しくて指を噛んだ。あの時にみせた彼女の顔。表情の意味は何だったのか。


 吸血鬼はフランチェスカの髪を器用に編んで、初めに髪につけていたリボンも一緒に編み込んだ。

 鏡を手渡され、フランチェスカは自分の姿を映してみる。上等な服を着せられ、髪はどこかのお嬢様のようにまとめられた。どんな顔をして自分を見ているのか、鏡から吸血鬼の顔を覗いたが、そこには何も映らなかった。吸血鬼が鏡に映らないのは本当らしい。

 絵本にでてきたお姫様になった気持ちだった。先程の血の着いた服は脱がされ、また別の上等な服を着せられた。


 吸血鬼はフランチェスカの手を引いて食卓へと案内した。

 フランチェスカを座らせ、その向かいに彼女も座る。二人が席に着くと、白い使用人が何かを運んできた。それはフランチェスカにとっては見覚えのあるものだ。革製の小型のトランクケース。ダンピールたちの仕事道具だ。

 使用人は吸血鬼の意思を汲むように動く。使用人は、食卓の上で、トランクケースを開いた。


 中に入っていたものを一つずつ並べていく。剣十字の杭、杭を打つ槌、鞘に収められた銀のナイフ、聖水の瓶二つ、空き小瓶が五つ、簡単な調理道具、組立ランプ、小さな発信機、カードが一枚。

 吸血鬼は一つひとつ手に取って、興味深そうに観察していく。

 どれも吸血鬼に効果のないものばかりだ。これらの道具は、気休めの御守りと、野宿の備えにしかならない。


 中に入っていた一枚のカードを手に取った。そこには、「西方療養所/研究機関」と書かれており、下部には電話番号が載っていた。吸血鬼はカードを手に席を立つと、フランチェスカを座らせたまま壁掛けの電話へ向かった。

 しばらく経ってようやく繋がったようだ。吸血鬼は電話の向こうの相手と何か話している。用事が済んだらしく、吸血鬼は戻ってきた。

 それからトランクケースに中身を詰め直し、フランチェスカへと返した。


「約束は三つ。危ないことをしない。勝手にここから出ていかない。お前から私に触れない」


 フランチェスカは数度瞬きをしてから、吸血鬼の方を見た。返事を待つ吸血鬼に無言で頷いてみせると、彼女は嬉しそうに目を細めた。


「お前は良い子だ」


 席を立ってフランチェスカへと近づく。彼女のおでこに唇を落としてから、吸血鬼は去っていった。

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