「銀の森と白い花」
今日と言う名の微睡みには、永遠に留まることなど出来ない。吐いた言葉が空に留まらないように、時間も同様に滞ることなく流れ去っていく。
「花瓶の花が傷んでいる。折角の立派な花瓶が台無しだな」
彼女が空に向かって呟いた。
その目に僕は映っていない。その目に映るのは、くだらない文字の列。あの人は、難しそうで僕では理解できないような言葉が並ぶ本を読んでいる。時折ため息をつきながら、だ。読書をしているのに、彼女はどうやらその本の方ではなくて花瓶の花を気にしているようだ。そう、彼女が読書と言う行為に飽きていることは分かりきっている。
彼女は、僕がこの屋敷に持ち込んだ僕のお気に入りクッションを使うだけではなく、僕のお気に入りの場所に陣取っていた。窓際のあの場所は、日当たりが良くて、風通しも良くて、長居しても疲れない。カーテンに遮られた陽が部屋の奥に差し込むのを眺められる。午睡に適していて、なんとも居心地がいいのだ。僕の特等席をとられた、などというつもりは無い。ここはもともと彼女の家である。ただ、たまたま僕の気に入っている場所が彼女が気に入っている場所であったというだけ。どちらも同じ場所を気に入るなんて、我々はそういう感性が似ているのだろうか。
僕は、彼女に言葉を返す。
「知っていますよ。もうあれは水を替えても駄目。どうにかするとしたら、茎をもう少し切るか、もう花を捨ててしまうかのどちらかしかないけれど――」
彼女は花瓶にしか気を向けていない言い方だったが、僕にとっては外側よりもその中身が重要だ。彼女が少しでも花を見て、その意味を汲んでくれるように、僕はなるべく丁寧に答える。だというのに、あの人は全く興味がないと言った様子で、さらには僕がまだ話している途中であるのにもかかわらず、ふうん、とかぶせて返してきた。その後には最初にあった静けさが帰ってきて、その中で時折、ぱら、と紙をめくる音が聞こえる程度だ。僕はそんな彼女に対し抗議の目線を送る。折角丁寧に回答をしましたがお気に召さなかったのでしょうか、と。だがしかし、相手はこちらを見ない。見ないどころか気付いてすらいない。彼女に文句を言えない僕には、それ以上なにも出来なかった。
黙って花瓶の前に足を運ぶ。
ついこの間まで、青々とした細い茎と欠片のように小さな葉に、白く小さい可憐な花が互いの隙間を埋めるように咲いていたのに。 この花はいつから置いていたものだっただろうか。 今のその姿は、その時と比べると見劣るのかもしれない。花自体は、枯れるとまではいかないものの、小さな花びらは乾燥してしまっている。葉や茎の色は少々退色して、青さをどこかに忘れてきてしまったようだ。枯れて朽ちていく花は、あまり美しいとは言えないし、そう感じたことなど今までに一度も無かった。どうやらこの花は違う。見劣るのかも知れないと表したのは、僕は、そうは感じていないからだ。枯れていくだけだというのに、褪せていく色に優しさを混ぜて、アンティークのような風合いを奏でているそれは悪くない。
だから花瓶をそのまま放置していた、というわけではない。つい、忘れてしまっていた。
「それで、その花をどうするの」
その口調と仕草は相変わらず。
読書をしている振りなんてやめればいいのに。
「そんなにあなたが気にするなら片付ける。少し待っていて」
彼女から返事は無い。僕がこれを片付けようと、片付けまいと、彼女はどうでもいいのだろう。彼女はもう二時間ほどああして本を読んでいる。その間に僕がしたことといえば、棚のなかの整理と掃除くらいだ。掃除をしているといっても、その三分の一、いや半分程度は、本を読むその横顔に見とれていた。彼女は僕と同じ女性であるけれど、その美しさの在り方は、次元が違うと言っても間違いではないだろう。僕は疾うから心を奪われてしまっている。だって彼女は美しいんだもの。仕方ないじゃないか。
花瓶は黒の陶磁器。円柱状の身体には、いくつものレリーフが彫られている。それは植物の蔓のようにも見えるし、絡まり合う蛇のようにも見える。僕にはこれが何なのかよく分からない。わかるのは、彼女が彼女の感性に従いこれを選んだこと、そうしてこれを気に入っていることくらいか。
あ、という僕の間の抜けた声のすぐあと、ガシャンと大きく無惨な音が部屋に響いた。
花瓶は大小の破片となって床に散らばり、中の水は逃げ損ねたようにその場に広がった。身を投げ出した花は、力なく床に抱きついている。目の前の光景を目に焼き付けることしか出来ない僕は、彼女の方を見られないままでいる。お気に入りを目の前で壊された彼女は今、一体どんな顔をしているのだろうか。
少し言い訳をしよう。
花瓶は埃がかかっていた。それは滑る。
花瓶の水は思ったより多かった。それは持てない。
形のある物というのは案外あっけなく壊れてしまうものであるし、命のあるものは、その生が始まったときから終わりに真っ直ぐ向かっていくのだ。そう、これは仕方ない。避けられなかった。いや、避けることは出来ただろう。気をつけて持てばよかっただけなのだし。ああ、どうしようか。どうしてしまおうか。色々と言葉を頭の中で並べてはみたが、ただ素直に謝れないだけの私は、やっぱり黙って立ち尽くすしかない。
「大丈夫?」
耳元でそう囁いた彼女の声に意識と感覚が引き上げられる。彼女の、お気に入りを自分の手で壊した。その事実を目に映した僕の思考は以降止まってしまったようだ。その優しい言葉が僕の耳を撫でた時に驚いて跳ね上がっていた両肩を、彼女は上から押さえつける。彼女は、肩に置いた右手を僕の顔へ滑らせた。その冷たさにも跳ね上がる。手袋をはめていない方のその手は、いつもと変わらず冷たい。それは、本当に血が通っていないかのように。
大丈夫。
そう言おうとした僕の口を彼女の手が塞ぐ。僕の髪を梳くように滑らかに、彼女は触れる。頬に食い込むほど強く押し付けられた指には、形の整った長い爪が赤く染められて待機していた。爪を立てて傷をつけるくらい容易であるだろう。彼女の長い髪が僕に触れる。いつもは結われている髪が、今日は僕の指先よりも下に落ちている。緩くうねるその弧の外周が触れているのだろう。耳にかけていた髪が滑りおち、彼女の右の手の甲を撫でる。僕の動きをとめた彼女は味わうように息を吸い込み言った。
「――血の匂いがする」
彼女が言いたかったのは、きっと、“怪我をしているのではないのか”という言葉。それなら、わざわざ訳の分からない言い回しは避ければいいのに彼女はそうしない。花瓶はそれなりの高さから落ちた、当然破片も飛び散るだろう。その破片がかすって、どこかに傷をつくったのかも知れないが、そんなのは、普通なら自分でもすぐに気が付かない程度のもの。けれど、彼女は人より鼻が良いから、そんな言葉が先に出てしまったのだろう。彼女は言葉が少し不自由というか、感覚が世間とズレている。だから何千と本を読んで教養とやらを身につけようとしていたらしいが、それは未だ効果を表さない。そもそもが間違っていることに気づくべきではないのか。
「大丈夫、です。それと、離してください。僕は花瓶を片付けなくちゃ」
「そう」
会話は終わった。が、彼女はその手を離してくれない。後ろから彼女に抱きつかれている。ああそうか、これは掃除を頑張った僕へのご褒美だったか。そうか。なんだかいい匂いがするし、悪い気分ではない。
いや、違うな。抱きつかれているのではない。これは、腕と頭を押さえつけられている。
お気に入りの花瓶を割ったことを怒っているのだろうか。それとも“おなかがすいている”のだろうか。彼女の表情は見えない。なんだか掴まれている腕と顔が痛い、気がする。それはひとに触れる時の力加減とは違う。痛い。ああ、痕がついてしまいそうなほどに。
「離して……もらえませんか」
「……駄目?」
ああ、彼女は今どんな目で僕を見ているのだろう。その目に映る僕は、どんな表情をしているのだろうか。
僕はこの先を思い浮かべる。
彼女に爪を立てられ、牙をたてられ、僕は生餌としての役割を果たす。血の匂いに刺激された彼女は、もう歯止めがきかなくなっていく。僕の伸ばした髪をかき分けて、露わにされた首筋を彼女は冷たい手でなぞる。そして無理に押さえつけられたまま、僕は首元に、喉元に噛みつかれるのだ。彼女の白く鋭い牙は僕の皮膚を貫く。跳ねる僕を彼女が喰らう。僕は彼女の空いた腹を満たす。抵抗する余地などない、すべもない。僕は抵抗する気もない、だって満たされた気持ちだから。これは一方的に行われる行為だ。僕は皿の上。あなたの意のまま。ああ、死が脳裏を過ぎる瞬間のなんと心地の良いことか。あなたになら、僕は殺されたって構わない。血を捧げるくらいなんてことない。何だって渡す。あなたへ純潔を捧げろというならそうする。生を捧げろというのならそうする。美しいあなたのすることなら、僕は何だって許してしまうから。きっと僕はそう思いながら、彼女に自らを、自らのすべてを捧げるのだろう。
――と、これは僕の頭の中だけで完結するものだ。残念ながらただの妄想。彼女は僕に手を出しては来ない。ああ本当に残念。僕がどれだけ彼女を欲しても、彼女は僕に振り向かない。あの花と同じだ。そう、本当は僕だって分かってはいるのだけれど。
僕はそれを自分に理解させるように、言葉にして彼女に返す。
「あなたはそれをしないでしょう。一口も駄目ですよ」
呟くように吐いた僕の言葉に、彼女は腕をほどく。僕が何者でも変わらない。僕がもし女の子じゃなかったら何かかわったのか、なんて考えるのは無駄だろう。
僕は花を棚の上に戻して、割れた破片を集めることにした。大きな破片をちりとり代わりにし小さな欠片を上へ乗せていく。
「お前、随分と私のことを好いているのね」
彼女は僕の後ろで割れた花瓶を片付ける僕を見ている。彼女の声は冷たいが優しさも含んでいる。ただ見ているだけなら、手伝ってくれても良さそうなのに。彼女にそんなつもりはこれっぽっちもない。なぜなら、彼女はこの城の主で、僕はその使用人だから。使用人とは言っても、それはただこの屋敷に住まわせてもらう口実だったのだけれど、あの人と一緒に居られるのなら何だって構わない。仮初でも偽りでも、彼女は僕の、僕だけの主様。主は自ら労力を払わない。誰かがやればいいことは、彼女がするべきことではないと、彼女はそう思っているのだと言っていた。本当は全部自分で卒なくこなしてしまう彼女が、わざわざ僕がここにいることを許すと言ったのと変わらない。仕事を与えてくれている。だからこそ、彼女の為に、僕は一生懸命働くのだ。
彼女は世にも恐ろしい吸血鬼。怖いこわい彼女に拾われた僕は、彼女の家に無理やり転がり込んで、彼女の機嫌をうかがいながら一緒に暮らしている。僕も、僕以外の全員も、今は彼女の“所有物”である。いつも一緒に居るのは僕だけ、それ以外の彼女達は、常に彼女の下に居るわけではない。
「ええ、勿論」
彼女は綺麗だ。それは見惚れてしまうほどに。好いていないわけが無いのだ。
透き通る肌も、くすんだ髪色も。仕草だって、声だって、在り方だって、考えだって、全部が全部、彼女は全てが美しい。そんな彼女のことを好いていないはずがない。嫌うはずがない。何よりも美しい彼女は、僕に欲しいものをくれたから。
「ねえ、その花瓶、私は気に入っていたのだけれど。お前はそれをどうするつもりでいるの」
「あ、そうだった。ごめんなさい、どうお詫びすれば……」
花瓶も花もめちゃくちゃだ。花瓶は気に入っていたと言うけれど、花のことには全く触れていない。きっと、彼女はその花が何であったかなど問題ではないのだろう。僕にとっては、その花の方が大切だったのだけれど。
「いや、冗談だよ。花瓶なら代わりのものがある。それを使うといい」
今度は割らないでおくれよ。彼女は元の場所に戻っていった。日当たりのいいあの特等席。僕のお気に入りで、彼女のお気に入りの場所。あの本は、彼女にとって何冊目になるのだろう。くだらない文字の列を瞳へ映すことに彼女はきっと飽きている。それでもやめないのはどうしてなのだろう。
「……お前に大きな怪我がなくて良かった。お前の代わりは居ないから」
その言葉に思わず頬が緩む。
彼女が緩い息に混ぜて吐いた言葉はなんとも人間らしい熱があった。
僕の代わりなんて沢山いるくせに。レイスも、シルムも、カタリナも、ここには居ないけれど彼女達は僕より有用だ。それは分かりきっている。けれど、僕の代わりは居ないとそう口にしてくれるだけで僕は嬉しいのだ。彼女がくれる言葉を、片手にはめた手袋に握り込んで。
「あの、ここで……いい、ですか?」
新しい花瓶に入れ替えられた花は、心なしか生き生きとして見えた。息をするのを思い出したそれは、また近いうちに色を取り戻すだろう。駄目だと言われないのなら大丈夫なのだ。だって、彼女はまた本を読んでいるのだから。
この花の花言葉は感謝。
僕は今日も花瓶に白い花をさす。
RSのストーリーをつくるにあたって一番初めに書いた文章。元になった、と言えばそうかもしれない? 口調や細かい設定、関係性などは、本編ではこの文より少し変更がある。書いた当時のままほぼ加筆修正なしでの掲載。この「白い花」って、何の花のつもりで書いていたんだろう。もう思い出せない……。