「赤い霧と銀の森」―第3話―

 とある街の郊外に「銀の森」と呼ばれる場所があった。広大なその森の奥には、薔薇の花が咲き誇る庭園つきの屋敷があって、それは恐ろしい吸血鬼の根城になっているともっぱらのうわさだった。
 その森が「銀の森」と呼ばれる所以は、森の草木を染める色が文字通り銀色であることからきている。辺りを包む銀色というのは幻想的に思えるかもしれない。森を染めているこの色は、彩度を奪われて死にたえたかのよう。しんと冷たい空気をまとい、温度すら失ったように思わせる。それは、ひらひらと舞い降りた小さな氷の結晶に彩られ、純白の装いをした明媚な景色とよく似ている。銀色の木々の隙間を埋めるのは、薄く色づいた赤い霧。陽が斜めに指すような時間でなくとも、この霧には常に赤い色がついている。色にむらをつくりながら、さながら意志を持ついきもののように、ゆっくりと森の中を巡回していた。
 不自然な色彩の景色の森は、世界から隔絶されたようなある種の美しさと、来訪者を拒むような形容しがたい不気味さを形作っている。この森の植物の色は、まじないを受けたものの行き着く先を示すものであった。


 あの日、雪の降りつもらない森に、雪が降った。晩には暖炉に火をくべたくなるほど冷えたと思えば、朝になるとしんしんと白い光が降りていた。いつもは積もらないはずの雪が、この森へと降り積もる。冷たく褪せた景色から、ほんの少しのこった温度と色さえも、白く小さな降り積む光が、全てを奪っていった。
 ひとりの吸血鬼は、その景色を窓辺で眺めていた。銀の森の奥に住む、薔薇の吸血鬼である。彼女には一つ気掛かりがあった。彼女が想うものは、彼女の一番の宝といえるものだった。それは屋敷の外にあり、この気候により悪影響を受ける可能性があった。彼女は薔薇の吸血鬼。薔薇の花を誰よりも愛している。それは愛情と時間をかけて育んだ愛すべき宝だった。寒空の下、いまも必死に凍える空気に耐えているのだろうか。そう考えると気が気でない。彼女はそんな薔薇達の加減が気になり、庭の様子を見に行こうと外へ出ることにした。
 近々、少しこの森を離れ街中へ出掛けようかと考えていた彼女は、着ていけそうなコートを並べ、どれにしようかと選んでいたところだった。ソファの上に放るように掛けてあった中から、手近なものを適当に手に取り、それを羽織って外へ出た。庭には既に足首まで埋まるほど雪が積もっていたが、雪の中も薔薇達は気高くその顔を上げていた。白銀の中に映える赤は、強く儚い命そのもの。愛しい花弁を軽く撫でた彼女は優しく微笑む。我が宝物の無事を確認した彼女は、屋敷へ戻ろうと振り返った。
 瞬間、彼女の鼻は、冷たい空気の匂いの他に、どこか懐かしく、甘美で馨しい香りを感じ取った。
 それも少しではない。じわじわと広がり、深く濃くなっていく。その香りは彼女にとって、王室御用達である最高級品の茶葉を用いた紅茶よりも、貴族達が好むような長く熟成され深みを増したワインよりも数段魅力的なものである。淡い赤に染る瞳のなか、瞳孔は中心から十字に開いた。聖痕のように紅く、忌わしいほどに美しい。瞳に埋め込まれた十字は彼女を突き動かす。雪に足を取られそうになっていることにさえ気付かないほど。彼女は夢中で雪原を踏みしめ、その根源へと進んでいった。

 彼女が向かう先には、つい先程まで幾人かの少女が居た。少女達はダンピール。吸血鬼討伐の任を受け、先遣隊の補充として赴いた者たちである。それは名誉あること、少女達は選ばれ、ここに居る。そのはずだった。あたりに転げるのは、動かなくなってしまった見知った顔。とりのこされた少女は、一人座り込んでいた。

 少女達、第八期討伐隊“Rosa”は、あと少しで薔薇の吸血鬼の住処である「ロサ・エデン」と呼ばれる屋敷へ向かっていた。屋敷近くと思われる森が開けた場所へ、少女達はやっとの思いでたどり着いた。しかし、そこに居たのは吸血鬼ではなく、目的を同じとする人間達。それは偶然と呼ぶに相応しい事由だった。
 不気味なほど銀に染った木々が生い茂るこの森には、整った道はひとつもなく、樹海のように複雑で入り組んでいた。踏み込んだほとんどの者はどこへもたどり着けない。誰もがそれを知っていた。
 悲劇的なことに、ここで起こってしまったのは同職者による同士討ちであった。少女たちの隊は壊滅し、彼らを襲った相手は逃走した。仲間の非業の死を目の当たりにし動けなくなった少女は、雪原に広がる血の海の中何も出来ず、一人座り込んでいた。
 その馨しい香りに、少女の中の何かが蠢き始めていたとも知らずに。

 屋敷の近くの少し開けた辺り、辿り着いたロンサールが目の当たりにしたのは、広がる血と切り倒された木の幹のように転がる生命だったもの達。その中心には、それらを貪るようにして何度も何度も噛み付いている一人の少女がいた。
 広がるのは赤い香り。
 撒き散らされた赤。
 散りゆく生命という画家が描いたその光景は、視覚だけでなく嗅覚からも彼女を虜にした。深く息を吸い込んだロンサールは、何にも変え難い快感に包まれた。

 少女は、ロンサールが雪を踏む音に気づく気配もなかった。ずっと夢中で血を食むばかりだったから。
 ロンサールは、それらを注意深く見た。少女はひどく傷ついているようだ。纏っている血液は、確かにその少女のものでもあるのだが、それだけではない。おそらく、周りで事切れている少女の同胞のものであることに間違いはないだろう。一人残った少女は、息を切らし、手足を引き摺り、溢れる血液は新たな痕を雪上に残していく。死体から零れる暗い赤と、少女から零れる熱い赤。冷たくなりつつあるその身体からは、そうやって熱が奪われ続けている。少女はきっと、自らの身体の状態を理解出来ていない。雪がちらちら落ちているのに、一枚のコートすらまとっていない。薄茶のシャツに黒いベストをひっかけているだけ。身につけている衣服も傷だらけだ。少女の背中と死体達が纏う衣服には見覚えのある同じ紋章があった。それは 十字を模した紋章。過去に数度見ているそれは、吸血鬼を倒さんとする機関のものだとすぐに分かった。少女の傍らに数体転がっている死体は彼女の同胞のもの。つまり、少女が貪るようにして噛み付いているのは、少女の同胞の死体であるのだろう。

 少女は自らを保とうとしていたらしかった。しかし、その姿は魔。理性を失い、堕ちた者の姿だった。あれでは、遅かれ早かれその生命が朽ちるだろう。魔となった者、つまり己を制御できなくなった吸血鬼は不死性が弱まる。この気候の中では、何もしなければ餓死か凍死は免れない。
 しかし、ロンサールの中には疑問が残る。あれは自らと同じ吸血鬼だろうか。吸血鬼だとしたら、あの牙のたて方はたどたどしいように思える。そもそも得体の知れないものに関わるべきではない。
 そうじゃない、それだけではない。
 何をどう考えようと、今は意味をなさない。結論は既に出ていた。目の前のアレは、放っておけば死ぬものだ。そう分かれば、するべきことはひとつだろう。
 吸血鬼であるが鬼ではない。目の前で死にかけている生命を見捨てることは、彼女にはできなかった。ロンサールは感じ取ってしまった、そして理解してしまったのだ。その少女の考えを、訴えを。まだ死にたくない、というその強い思いを。自分がいま手を貸さなければ、この未熟な少女は、冷たく白んだこの森で、同胞たちのあとを追うように、きっと死んでしまうのだろう。

 この森は彼女の家といってもいい。
 だから、家の前で死なれては気分が悪いじゃないか。
 ロンサールは自らにそう言い聞かせて、自分の血を飲ませ、少女を抱えて屋敷へと戻って行った。


 同種の情けだといえばそうなのかも知れない。だが、拾ってきた少女は自らを吸血鬼ではないと言った。
 ロンサールは少女の居る部屋をあとにして、ポットとカップを片付けるためキッチンへと向かっていた。

 少女は吸血鬼である、ロンサールはそう思っていた。彼女の思うように、あのアラードという名のその少女が吸血鬼であるというのは正しいだろう。事実として、少女は森で牙をたて血液を獲ていた。獲物に対し吸血のため牙をたてるという行為を、人間は決して行わないはずだ。ロンサールは、立ち上がることもかなわず手足を引きずるほどに酷い傷を負っていた少女へ最低限の手当をした。だが、それ以外は血液を飲ませることしかしていない。そんな方法で、自力で起き上がれるほどに回復する者を人というのは正しいのだろうか。
 しかし、吸血鬼でないというのも正しいのだろう。屋敷へ連れ帰ってから何度か血液を飲ませたが、その度に無意識ながら、少女は顔をそむけたり、吐き戻したりと拒絶するような反応を見せていた。見かねたロンサールが、先程、血液を口移しで飲ませたほどだ。あれには彼女の唾液も含まれていただろう。吸血鬼の体液は、人間にとって悪い薬と変わらない。使い方さえ間違えなければ万能薬として用いることも出来るが、過多摂取すると昏倒する。吸血鬼と違い代謝のいい人間には即効性があるのだ。少女は体温が高かった。それは眠りにつく前の子供のように。不死者である吸血鬼は人と同じような姿をとるが、代謝が損なわれていて、人を基準として考えれば体温はかなり低い。これらをふまえ、口移しで血を飲ませてから数秒で倒れるように眠ってしまった少女は人間と相違ない。その少女を吸血鬼だと言えるのだろうか。

 吸血鬼でもあり人間でもある。そんなものが存在するのだろうか。両方の性質を上手く持つなんて、それこそ双方の間の子でもなければ――――。

 彼女は一つの答えに辿り着く。
 「ダンピール」と呼ばれる存在。それは、人間と吸血鬼の間に生まれた存在である。彼らならば、両方の特性を併せ持つということにも合点がいく。しかし、不死者である吸血鬼や、四十年を優に超える寿命を手に入れた人間と比べれば、ダンピールという存在はあまりに短命である。その存在数は極端に少なく、多くの知識を持つロンサールでさえ詳しくは知らない。まして怪我を負ったものへの対処法など。
 仮定が正しいかどうか、直接少女に訊けばよいことだ。片付け終えたロンサールはもう一度少女の居る部屋へ向かう。眠っているところを起こすのは偲びないが、気になることをそのまま放置しておく方が気持ちが悪い。しかし、声をかけようと刺激を与えようと何の反応も示さない。起き上がらせて無理に座らせたところで、薄く開かれた瞳は虚空を映し、手腕と首は重力に抗うことも出来ず力なく下方へ向かって傾いた。死んでしまったのだろうか。衣服を整えベッドへ戻したが、まるで人形のようにそこには意思も何も無かった。ロンサールはその胸に耳を押し当てる。彼女の耳に届いたのは、規則的でやや浅く緩やかな呼吸と、静かに拍を打つ鼓動だった。それ以外は何も無い。

 少女は動かず横たえる。言葉を交わしたあの日以来、目覚めなくなってしまった。

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