「赤い霧と銀の森」―第5話―

 体力が戻ったアラードは、今までじっと寝かされていた分を取り戻すかのように、ベッドの周りをうろうろしたり、誰かをみかける度に引き止めて話したがったりした。静かで平穏な日々を愛していた吸血鬼は、この状況に耐えきれない様子だった。自分で拾ってきたにも関わらず、どう捨てようかを考え始めていた。


 部屋を出る許可が出ていないため、アラードは大人しく与えられた部屋にいた。吸血鬼や使いの者たちが部屋へくるのをずっと待っていた。ただ話したいだけなのか、それとも彼女を引きとめておきたいのか、次から次へと話題を持ち出し声をかける。その様子はまるで、構って欲しいとしっぽを振りながら、投げられたおもちゃを何度も取ってよこしてくる、よく懐いた子犬のようだ。しかし、吸血鬼はしつこくくっついてくる存在が苦手だった。これほどにまで人懐こいアラードを、彼女の平穏を乱した異物として疎ましく思っている。

 自身のこと、自分が知る全てのこと、目に映るもののこと、アラードは全てを話の種にして精一杯会話をつなごうとするが、吸血鬼は適当な相槌でそれをブツブツちぎり続けている。アラードが何を言っても「そう」とか「へえ」と言って、欠片も興味を抱いていないので静かにしていろという顔をするのだ。


 相手をすることに苦痛を感じ始めていた吸血鬼は、アラードへ部屋を見て回ることを許可した。屋敷の中を好き勝手に触られるのは嫌だったが、日がな一日うるさい子供の相手をする方がもっと嫌だった。

 吸血鬼がアラードに貸した部屋の掃除に向かうと、アラードも戻ってきてベッド横の椅子に座った。掃除をする吸血鬼の手伝いをするわけではなく、忙しなく動く吸血鬼へひたすら話しかけているばかりだった。


 アラードが始めに聞いてきたのは、この屋敷のことだった。人里離れた土地に屋敷を構えている理由、使用人の人数、出入りする者の有無。次には吸血鬼自身のこと。彼女の出自、名前、交友関係、得手不得手。アラードはなんでも知りたがった。

 始めは他愛のない会話だと思っていた。しかし、少しずつ違和感を覚えていった。アラードが訊ねてきた内容は、まるで始めから決められた台本に沿ったものであるかのように思えてきたからだ。元々、気を許した相手以外に口を開こうとしない吸血鬼は、アラードへ情報をわたすことはなかった。


「せっかくこんなにお話ししているのに、お名前をお教え頂けないんじゃ呼ぶことだってできませんよ。僕たち、もうこんなに仲良しじゃないですか。お名前で呼びあってもいいと思うんです」


 吸血鬼は返事をしなかった。


 瞳を潤ませて見上げるアラードは、ゆらゆら振る尻尾がみえるようだった。そんな目で見てくるアラードにも、吸血鬼はこれまで投げかけられてきた話題と同様に「嫌」と一言、冷たく一蹴した。一瞬悲しそうな顔をしたアラードだったが、むむ、と口を結ぶと、気を取り直したようでもう一度口を開く。


「……あ、失礼しました! 先に名乗るのが礼儀ですよね。僕はアラードといいます。ファミリーネームはありません。お好きにお呼びください」


 微笑みながら少し恥ずかしそうに言うアラードへ、吸血鬼は不快そうに一瞥した。二度も跳ね除けられたアラードは不機嫌そうにむくれた。見るからにしょんぼりしている。拗ねた子供さながら、いじいじと指先を動かしているのを、吸血鬼はじっと見ていた。アラードはピタリとそれをやめると、ベッドの横にたったままの吸血鬼を見上げながら聞いた。


「どうしてそんなに拒絶するんですか?」


 掃除の手を止めた吸血鬼は、アラードの目を見て「嫌だから」とハッキリ言い放った。彼女からの返答はまた短かったが、てきぱきとベッド回りを整理しながらアラードの相手をしていた彼女が、急に手を止めてまで嫌だと言った。アラードは彼女の冷たい言い方に、感情のようなもの欠片を少しだけ感じた。


「あの……怒っているんですか?」

「怒っている?」

「そう見えますが」


 吸血鬼が腹を立てているのは間違いではない。その要因である少女に、怒っているのかとわざわざ訊かれ、一瞬噛み付いてやろうかという気が頭をよぎった。しかし、噛み付いたところでコレは退くことを知らない。


 アラードに名前を教えてやらないのは、名乗るべきではないと分かっているからだった。

 名というものは元来やっかいなものである。名は体をあらわすというように、その名自体が対象の実態を表しているのだ。言語を解するものができる名付けという行為は高慢な行いであるともいえる。

 人間たちは、その住処や行動から吸血鬼に呼び名を付けた。この屋敷の主である女吸血鬼に付けられた名は「薔薇の吸血鬼」というものだった。またの名をロサ・エデンという。銀の森深くにある薔薇の庭園の真ん中に彼女の住む屋敷があるためだ。人間たちは彼女の薔薇庭園をみたことはないが、過去に足を踏み入れた者たちから伝え聞いていたらしい。

 この吸血鬼は、薔薇の園の女王という意をもって、人間たちから畏怖の念を込めてそう呼ばれている。

 吸血鬼たちは自ら名乗りたがらない。大抵は偶然耳に入った通り名からとったものや、過去に気に入っていた愛称を名乗ることが多い。吸血鬼同士でも、「旧き友」「同朋」「同じ牙を持つ者」などと呼び、自らを吸血鬼と呼称することは滅多にない。

 ペトラ・ロンサールという彼女の名を知るのは、彼女の古馴染みであるふたりと、友人であるひとりの魔女くらいだ。本当に親しい間柄の友のみが知っている。彼女のことを正しく理解してくれている数少ない信用できる存在だ。名を明かすのはこと慎重にならなくてはならない。その真の名を知れば、吸血鬼の心臓に杭を打ち付けるくらい簡単にできるのだから。


 おいそれと名を口にするわけにいかない。まだ互いのことも知らない間柄の、偶然拾った子犬になど、わざわざ教えてやる義理はないのだ。


「どうしても僕には教えてくれないんですか? そうですか、わかりました。あーあ。こんな大きなお屋敷のご主人様なんだから、きっとカッコイイお名前なんだろうなあ」


 そう口にしてから、右斜め上を見て、次には反対側を見て、ゆっくり考え込んでいる。はたと気づいた様子で、いい考えだと言わんばかりに両手を鳴らした。


「そうだ、主様と呼びましょう!」


 ピッタリの呼び名を思いついたとアラードは何度も頷きながら満足そうな表情をうかべる。対して吸血鬼は大層不服そうな顔をしている。理解し難いことをぺらぺらと話し続けるアラードをじっと睨みつけている。しかしアラードは全く気にとめない。すでに自分の世界の中にいるのだ。逃避の世界は幸福に満ちている。全てのものは愛されて、全てのものは救われる。その世界における大まかな筋書きはそのように単純なものだった。アラードの中では、眼前の吸血鬼は救世主である。世界に捨てられた自分は、吸血鬼によって救われた。彼女はこの屋敷の主、自分は今日からその使い。だから彼女を主人と呼ぶ。これからずっと、いつまでも幸福に暮らすのだ。


「僕をこれから屋敷に置いてくださるのなら、僕のご主人様でもありますよね。主様と呼ぶのは正しいと思います!」

「お前をここに置くなんて言っていない。第一、私はお前の主じゃない。お前のご主人は、お前の親元の機関とやらの人間サマだろう」


 彼女達は吸血鬼とダンピール。ダンピールは吸血鬼を倒すために存在している。機関がそうさせているのだ。本来ならば、ダンピールであるアラードは、吸血鬼を殺しにこの場所へ来たも同然であるのに。


「僕は恩返しがしたいんです。駄目ですか?」

「私は見返りを求めてお前を拾ったんじゃない」


 吸血鬼が少女を拾ったのは、彼女が言ったようにただの“気まぐれ”である。退屈しのぎに拾った新しい玩具のひとつでしかなかった。結果的に少女を救うことに繋がっただけで、善意や親切心から行ったわけではない。ゆえに感謝されるいわれはない。


「今日まで僕のこと看病していただいて、たくさん迷惑をおかけしたと思うし、なにかお礼がしたいんです。僕はお掃除が得意です、お料理だって作れます。使用人が一人増えればお屋敷はもっとピカピカになると思います! 素敵な考えでしょう!」


 いい考えだ。今日からここに住むといい。そう言われるのを待って、胸に手を当てたアラードは満足そうにしていた。吸血鬼から返ってきた言葉は、少女の求めるものとは異なった。


「他には?」

「――ほ、他、ですか?」

「この屋敷は、使用人たちと私だけで維持している。現状何の問題もない。それでも、お前を置くことで得られる利益があるなら別だが」


 アラードには、どうしてもこの屋敷に留まらなければならない理由があった。いくら怪我が治ったとはいえ、たった一人で銀の森に放り出されるのは危険である。生きて森を抜けた者が今までに一人も居ないのだ。いま見捨てられれば、確実な死が待っている。機関からの支援がない今、後続や捜索隊がたどり着くまでの間、何をしてでもここで生き延びなければならない。

 固く握りこんだ手は震えていた。吸血鬼の冷たく鋭い視線に心臓を貫かれる。できることなら、今すぐにでもここから離れたい。血の気が引いていく思いだった。


「しょ、食事は残飯でかまいません。部屋も納屋や物置でいいし、一生懸命働きます!」

「お前にやるものは残飯すらないし、納屋は好んで使う者がいる。物置は空きがない。働き手は足りている。――それで、他には?」


 屋敷の主たる彼女へ事情を話しても理解は得られない。彼女は自分自身と大切な薔薇以外には興味がない。情に訴えたとて無駄である。今の彼女には、取り付く島もない。


「一体どのくらいの間置いてくれというの。あと数日? 数週間? 数ヶ月? まさかお前が死ぬまでの間? お前の気が済むまで、私にままごとの付き合いでもしろというの?」

「いいえ。長くて一ヶ月、それまでの間、どうかここに住まわせてください。僕は、誠心誠意、主様にお仕えいたします!」


 先の不毛な会話から続くこの申し出に、吸血鬼は苛立っている。彼女の完成された静かな生活に不純物は要らない。怪我が治ってしまって、世話のしがいがなくなった。今までは動かず喋らずで静かだったのに、口数の多い今の少女は気に食わない。吸血鬼にとって愛でる対象ではなくなってしまった。


「そうだ! あ、貴女は吸血鬼でしょう。僕を助けたのは血を食むためなのでしょう。血なら、いくらでも差し出します」


 アラードは、吸血鬼のなかには生き餌としてそばに人間を飼っておく者もいることを知識として知っていた。何をするでもなく、吸血鬼が無償で“ひと助け”なんてしないだろうということも。


「敷地内で死なれては迷惑だったから拾っただけ。お前は不味いから茶菓子にもならない。もう動けるようになったのなら早くここから出て行って」

「あ、主様ぁ」

「違う。お前の主は私じゃない。早くここから出て行って」

「でも……!」


 しつこく食い下がる少女を吸血鬼は睨みつけた。そこには明確な敵意があった。それを感じとった少女は一瞬肩を跳ねさせた。そのまま後ろへ飛び退く勢いだったのをこらえて、吸血鬼から目を離さないようにしている。

 吸血鬼は気紛れで死にかけていた少女を介抱したが、本当に回復するとは思っていなかったし、変に懐かれて一緒に住みたいなどと言われるのは想定外だった。


「着替えて」


 吸血鬼は、床頭台に掛けておいたアラードの服を彼女へ放って言った。アラードは乱暴に投げてよこされた自分の服と、目の前の吸血鬼を交互に見る。血や泥で汚れていたはずの服が綺麗になっていた。このひとが洗ってくれたのだろうか。こんなに良くしてくれるなんて。冷たい態度をとってくるけれど、本当はいいひとに違いない。少女の頭の中はそんな考えでいっぱいだった。感謝、尊敬、そういった類のものである。

 しかし、柔らかくて温い感情が湧くのと同時に、疑問も湧いてきた。着方が分からないわけではない。ただ、どうして今、この服に着替えなくてはならないのかが分からない。


「早く」


 有無を言わせない態度で急かす。アラードが服を抱えてもじもじしていると、ペトラは靴をカンと一度鳴らして腕を組んだ。顔を見なくてもわかる。相当苛立っている様子だ。

 着替え終えたアラードへ、ペトラは後ろをついてくるよう言った。屋敷内の探索を終えていたアラードは、どこへ向かっているのか理解してしまった。森へ続く出口の中で、一番霧の濃い空間に続く扉の前。

 あの赤い霧の正体はわからないが、何か嫌な予感がする。


「ここから出て行って」


 扉を開けたペトラが冷たく言い放った。扉の前に立たされたアラードは、後退りをした。鞄とコートは手からすり抜けて床へ向かう。

 ゴトン。鞄が床にぶつかる音がした途端、それを皮切りにアラードは屋敷内へ走った。このまま外に出されてあの霧に飲み込まれれば、もう二度とここへ戻ってこられない気がする。屋敷の中に隠れてやり過ごせるわけがない。それは分かっているが、今の彼女にはこうすることしかできなかった。

 もう一度話せば理解してくれるはずだ。今は気がたっていて、時間が必要なんだ。

 アラードは物陰に隠れた。


 静かな屋敷の中にカツカツと靴音が響く。

 鼻が利くアラードは、吸血鬼が遠ざかっていくのを感じた。あの吸血鬼は、生臭い薔薇の香りをまとっている。逃げ込んだ先はひどく埃臭いが、吸血鬼の匂いは察知できそうだ。このまま隠れて、吸血鬼が落ち着いた頃にまた話し合いをすればいい。安心して息を吐いた途端、後ろから何かに髪を掴まれた。

 目線をずらすと、土のついた黒い靴が見えた。見覚えのない足元に振り向くと、そこにいたのは屋敷の使用人の一人だった。赤毛の使用人は、土のついた手袋をはめた手で、アラードの腕を掴んでいた。使用人は掴んだ手を引っ張って、偶然置かれていた古い柵とアラードの腕を絡めた。逃げ出さないように、今度は手首を掴んでいる。手を震わせて、怯えた目でアラードを見下ろしていた。

 あまりに滑らかな手技を披露され、アラードが呆気に取られていると、使用人はつま先を床へ何度も打ち付け、屋敷中に響くほど大きな音を鳴らした。


 カツカツ、カツカツ。使用人の立てた音を辿って足音が近づいてくる。アラードは逃げようともがいたが、辺りには古い柵や棚、掃除道具や大きな荷物ばかりが置かれており身動きが取れない。逃げ込んだ先は室内の物置だったらしい。腕を柵に固定されてしまっては、狭い空間の中ではうまく解けない。


「リュディ、危ないから手を離しなさい」


 吸血鬼は優しい声音で言い放った。すると、使用人は掴んでいた手を緩めた。逃げ出すには今しかない。アラードが屈むと、上から背中を踏みつけられた。吸血鬼は狭い隙間を猫のように縫って進み、アラードのすぐそばまで来ていたのだ。床に顔を打ち付けたアラードに構うことなく、吸血鬼はアラードの髪を掴んで引きずり始めた。


「やだ! いた、痛い、いたい! やめて、やだぁ! ごめんなさい、何でもするから!」


 喚くアラードの髪を掴み、屋敷の出口まで無理に引っ張っていく。吸血鬼が綺麗に洗ってやった服は埃にまみれ、少女は鼻と唇から血を流している。泣き叫びながらもがいて抵抗するが、吸血鬼はそれをものともせず、扉を開けて外へ転がした。短い階段を背中で降りたアラードへ、彼女の持ち物である鞄を叩きつける。鈍い音がしたのは気にとめず、全てを屋敷からつまみ出したのを確認して、吸血鬼は扉を閉め鍵をかけた。吸血鬼の言いつけにより、使用人たちはそのほかの外へ続く窓や扉の鍵も閉めた。


 外から扉を叩く音が響く。叫び声と泣き声とが混ざっている。

 吸血鬼はお茶の用意をするよう使用人の一人にいいつけた。静かに靴を鳴らしながら、彼女は階段を昇る。二階の窓際に面した部屋は、彼女のお気に入りのひとつ。今日も変わらず美しい銀の森を眺めながら、椅子に座った。ノックの音に返事をすれば、戸を開く音と一緒に紅茶の香りが入り込む。

 愛した平穏が戻ってきた。紅茶をゆっくりと楽しむ吸血鬼は満足そうにしている。

 吸血鬼は、うかつに生き物を拾うのは止めようと決めた。拾うならいつものように死体だけにしておけば良かったのだ。赤い霧は木々を透かすようにゆっくり移動する。



 銀の森と呼ばれるこの地は、雪原のような白銀の景色が広がる。雪が積もっているのではなく、植物の葉や茎が白く染っている。立ち入った者で無事に帰った者は誰一人居ないとされる。

 屋敷の中の探索は終えていたが、屋敷の周囲の状況は全く掴めていない。手がボロボロになるまで扉を叩いても開く気配はなかった。アラードは、何とか助かりたい一心で、なるべく霧の薄い場所へと移動していく。どこまで進んでも似たような薔薇のアーチが顔を出す。広い庭園はまるで迷路のようだった。鮮やかな色の薔薇が咲き乱れる庭園は、森の植物と同じように葉や茎が白く、幻想的な雰囲気を纏っている。誘われるように奥へと足を踏み入れていく。それにともなって、死臭はだんだんと強くなっていった。

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